私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー

私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー

ALS(筋萎縮性側索硬化症) の患者である酒井ひとみさんの、日常と病気との向き合う様子が綴られたエッセイ

【第三回】私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー せめて病名さえはっきりすれば…

【第三回】私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー せめて病名さえはっきりすれば…
まっすぐ歩けなかったり、転んだり。絶対足がおかしいと思うのに、原因も病名も分からない…酒井さんは神経内科や整形外科など、いろんなドクターを受診します。しかし、でてくるのは「何も分からない」「異常はない」という診断結果のみ。もやもやとした心情から、どんどん不安や焦りがつのっていきます。せめて病名さえはっきりすれば…
東京の病院に行くまでのストーリーと、当時の不安や焦りについて綴った第三回『私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー』です。

神経内科というものを知っている人はいったい何人いるのだろう。
私は行くまで全く知らなかったし、うちに来ているヘルパーでも、精神科と神経内科との区別がつかない人もいる。

そんなマイナーな神経内科に初めて行った時の印象は、どことなく薄暗く、患者さん達も他の科とは違う感じがした。みんな誰かしら付き添いがいたのが、その時の私には、理解しがたい光景だったのだ。絶対ちがう。私はこの科の病気のはずがない、と心から祈っていたのを今でも覚えている。

というのも、私はそれまで、大きな病気をしたことも入院も、出産する時以外は経験がなかった。子どもが生まれた後、『ヨウ連菌』という小さい子がよく冬場にかかる流行風邪のようなものを子供からもらい、毎年年末にダウンしたくらいで、たとえ家族全員がインフルエンザにかかっていても、なぜか私だけかからないくらいの健康体だった。

なので、仕事を休む時は決まって家族の世話ばかりだった。ある年、子どもと主人が順番にインフルエンザにかかり、1か月近く仕事を休むことになってしまった。主人は、インフルエンザの影響で肺炎を併発しており、入院が必要な状態だったが、あいにくその年はインフルエンザが大流行していたので、部屋が空いておらず入院することができなかった。しかし、すでに1か月近く仕事を休んでいた私は、気まずさのあまり仕事を休むことができず、主人が辛い状態だったにも関わらず、お昼ご飯を作りに帰ることくらいしかしてあげられなかった。

その後、私は入院中に友人と笑いながら、昼食をとっていた時、誤ってほんの少しだけおかずを吸い込んでしまった事があり、そのせいで次の日に肺炎になった。肺炎になって初めて、主人がどれだけ苦しかったのか、心細かったかを、身をもって体験した。今考えると、主人が肺炎になった時は、周りの目など気にせずに、家族の世話をするために堂々と休めばよかった。

 

「かわいそう」という感情は、誰でもすぐに湧き上がるけど、その真の苦しさが分かるのは経験・体験をした人だけだと思う。

人はお互い思いやって接しているのかもしれないが、実際にALSを罹った友人や家族がいても、どっぷりとその人の苦しみがわかるわけもなく(別に分かって欲しいから言っているわけではない。どっぷりとはまってそばで暗くなられたら、そこから、お互いに抜け出せなくなり、逆に悪循環になってしまう。)、ALSに罹った人は罹った人で、介護してくれる人の気持ちや大変さをわからずに、無理難題を押し付けてしまいがちだ。これはALSに限った事ではなく、どんな障害をもった人でも一緒である。介護してくれる人の許容範囲を超えた頼み事は、ただのわがままになってしまい、しかもそれがおかしいと言えない環境を作ってしまうのは、世で言うパワーハラスメントと変わらない。

ついこの前も私の母に、「母のことを考えてない!」と怒られ、そこから喧嘩になってしまった。私なりに分かっているつもりだったが、全く分かっていなかったようだ。

でもその時も、今も、お互いの辛さを理解し合えているとは思えない。両者はきっと永遠に分かり合えないんだと思う。もしも、ALSという病気が治るものになり、母が病気になって介護が必要になった時に、ほんの少しだけ歩み寄れるかもしれないが…そういうことを夢見るより、お互いの気持ちや立場を理解するために疑似体験できる機械が出来たら、相手の辛さをわかったうえで、接することが出来るのにな…と本気で思っている。

だから、冷たい言い方かもしれないが、みんなお互いの”真の気持ち”は分からないし、理解することが出来ない、と私は思うのだ。

 

長くなってしまったが、神経内科に初めて行った時の話に戻ろう。
最初に脳のMRIをとり、そのあと神経伝達速度の検査を受けることになった。そこで何かしらの結果が出ると考えていたが、結局何もわかったことはなく、2〜3か月後にもう1回来院して欲しい、と言われた。

それからも、日に日に足に力が入らなくなり、そのせいでよく転ぶようになった。何でもないようなちょっとした段差や階段など、色々な時に。

ある日、そろばん教室の参観日にヒールのパンプスを履いて行ったことがあった。子供たちが通っていた保育園は年長になるとそろばんが始まるため、それを観に行こうと思ったのだ。普段はスニーカーのようなヒールのない靴を履いていて、ヒールのある靴は、実家に帰って中学の友達と呑みにいく時や、子供と離れる時にしか履かず、おしゃれとはほど遠い暮らしをしていた。でも、その日は、友人からもらったヒールのパンプスがあったので、久しぶりにちゃんとした格好をして出掛けることにした。

子供の保育園は、駐車場から100mほど離れているところにある。そのわずかな距離を歩くだけなのに、左足に力が入らず、まっすぐ歩けずに外側に曲ってしまった。恥ずかしい気持ちで胸の中がいっぱいだったのと、やっぱり体のどこかがおかしいんだ、という気持ちが、疑惑から確信へと変わった。帰り道は、パンプスを履くのを諦め、スリッパを履いて帰った。

後日、その様子を見ていた娘のクラスメートのお母さんに、「この前の歩き方を見ていて思ったんだけど、股関節が悪いのかもよ。」と言われた。確かに、これまで一度も考えたこと事がなかった。股関節か…と思い、次の仕事が休みの時に、有名と噂されている紹介してもらった先生の元へ、隣の県まで行ってみた。

まず腰のMRIを撮った。診断では、「ヘルニアっぽい感じの所はあるけど、そこまで足に脱力を感じるほどのものではないと思う。」と先生に言われたため、「じゃあ股関節のMRIを撮ってださい」とお願いした。

色んな先生に聞いても分からないと言われ、段々焦りというか、本当に治るものなのか?という疑問と、「先生に分からないなら自分で探してやる!」という気持ちから出て来た言葉だった。

だが、「きっと、何もわからないと思うよ」と言われた。

でも次に行った時に、先生にもう1回だけ神経内科に行ってみて欲しいと言われ、仕方なく、前に行った神経内科に行った。もう一度神経伝達速度の検査と、髄液検査をしたが、結果は一緒だった。

「若干の神経伝達の速度は遅くなったかもしれないけど、そこまで異常をきたすものではない。」と言われ、さらに追い打ちをかけるように「そこまで悪そうに見えないんだよなー。」とも言われた。ドクターがそんな事を言うなんて、と呆れたのだった。

この言葉を聞いた時、もう無理だな、こんなに田舎の病院じゃ…と、そう思ってしまった。そうして、「東京の大きな病院で診てもらいなさい。」という母の言葉どおりに、以前から母に勧められていた東京の大きな病院を紹介してもらい、そこのドクターに、東京でいい病院はないか聞く事にした。すると、“いい”病院ではなく、“通いやすい”病院を紹介された。もしかしたら、ドクターのやさしさだったのかもしれないが…

私は、仕事の休みを利用して、紹介された大学病院に通うようになった。既にその時点で、最初の病院に行ってから半年が経とうとしていた。その頃には、仕事や私生活にも少しずつ影響が出始めていた。それは、他人にはあまり分かってもらえないくらいの、大したことには見えなかっただろう。

 

この時に、私が感じていたのは、「なんでこんなに症状が出ているのに、先生はわからないのかな?いったいどこの科にいけばわかるの?」といった、ドクターへの不信感にも似たような不安だった。病名が分からなくて、病名を見つけれれば、不安が消えるかも、と期待していた。私は、全くALSという病気のことを知らないから、すごい不安のなかでもそんな呑気でいられたのだ。

(つづく)


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第4回は8月3日更新予定。

<著者プロフィール>
酒井ひとみ
東京都出身。2007年6月頃にALSを発症。”ALSはきっといつか治る病気だ”という強い意志をもちながら、ALSの理解を深める為の啓蒙活動に取り組んでいる。仕事や子育てをしながら、夫と2人の子供と楽しく生活している。

第二回はこちらから
https://koyamachuya.com/column/backstage/als/11892/