せりか基金通信インタビュー「僕らの活動によって、限界なんてないんだと思ってくれる人がひとりでもいるのなら、こんなにうれしいことはない」WITH ALS代表 武藤将胤さん | 『宇宙兄弟』公式サイト

せりか基金通信インタビュー「僕らの活動によって、限界なんてないんだと思ってくれる人がひとりでもいるのなら、こんなにうれしいことはない」WITH ALS代表 武藤将胤さん

2018.02.19
text by:編集部コルク
アイコン:X アイコン:Facebook
宇宙兄弟は「せりか基金」を立ち上げます。
シャロンが患って闘っているALS、せりかのお父さんが患って亡くなった病気であるALS。未だに原因も治療法も解明されず、徐々に体の運動機能を失っていく恐怖や、知力、痛み、かゆみ、寒さなどの体の感覚が保たれたまま意志を伝えることができなくなる恐怖、自分の命の意味と闘うALS患者の方の、希望を叶える支援をしたいという想いがあります。せりかの夢の実現を現実のものに。

武藤将胤さんは20代でALSを発症。そのあと自身の体験をベースに、ALSの認知や理解を広める活動「WITH ALS」を展開してきました。

コミュニケーションとテクノロジーを軸に、すべての人に明るいニュースを届ける! そんなポジティブな姿勢で仕事を進めつつALSと向き合う武藤さんに、お話を聞きました。
「ALS患者の立場から見て、せりか基金の活動は本当にありがたいものですよ!」
と、出だしからいきなり、こちらへの気遣いを見せてくれる武藤さん。どんなテーマについても、和やかな表情と軽妙な語り口で語ってくれました。

ALSと付き合うためには、スピード感が重要

ALS患者や関係者の誰もが願う共通のゴールといえば、やっぱりALSを治すことですよね。治療薬をつくる研究に資金を渡そうというせりか基金のような取り組みは、大切なアクションです。

個人的にも期待は大きい。僕は2013年にALSを発症して、その1年後に宣告を受けましたが、症状はどんどん進行していく。だから治療法がいち早く生まれてほしいし、自分はそれに間に合うのかなと、いつも気にしています。ALS患者はそれぞれの症状を抱えながら、みな同じ思いでいるはずです。仮に自分が間に合わなかったとしても、研究開発は日々少しでも進んでほしいと心から願います。

日本の現行制度では、実際の患者に投薬する治験に行き着くまでにも、治験そのものにも時間がかかる。そのあたりのスピードアップはなんとかできないかと、いつも思います。

いま日本を見渡すと、いくつかの期待を持てる治療法の研究開発が進んでいます。フィコンバという抗てんかん薬、遺伝子治療、iPS細胞を活用した創薬、多能性成体幹細胞のミューズ細胞などですね。
患者が使えるような段階になったら、僕はどれもすぐにトライしたい。そうして自分の体験からどれが有効なのか明らかにして、ほかのALS患者のみなさんに有益な情報を発信していきたい。

そうした活動の助けになってくれるものとして、せりか基金はあると思います。当事者の強い願いとしては、スピードとの勝負であることをぜひ意識していただきたいところ。進行速度はまちまちながら、ALSは進行性の病気。悠長に治療法の完成を待っていたら、間に合わない場合もある。スピードとの兼ね合いは大事なポイントです。

それに、幅広くいろんな治療法に光を当ててもらいたいという気持ちも強くあります。ALSは進行速度も症状も人それぞれ。ということは、原因が複数ある可能性が高い。だから視野を広く持って、あまり絞り込まず治療法を探していけたらいいと思うんですよ。

僕はこれまで、こんなことをして生きてきた

生まれたのはアメリカのサンタモニカです。小さいころから、好きなものには人一倍のめり込む性格。中学時代はマウンテンバイク、高校ではバンド活動に打ち込んでいました。

好きなことは徹底的にする代わり、勉強には集中できない時期も長かった。つい、これは何のためにやっているの? どんな意味がある? などと考えてしまうのが災いしていたんですね。

そのせいか、大学受験では志望校に合格できませんでした。落ちてから自分の行動をあれこれ考え直し、自分にとっての指針らしきものを立てることにしました。

目の前のことから逃げないようにしよう。いつだってビジョンを持って、その実現に向けて行動しよう。
というものです。これは今に至るまで、僕がいつも心に抱き立ち戻ろうとしている言葉です。

勉強をし直し、大学へ進学しました。もともと持っていたファッションへの興味をかたちにしたくなって、セレクトショップでアルバイトに励みました。

それから、Ideedという学生団体を立ち上げました。
「世の中を明るく変えるアイディアを形に!」
をスローガンに、大学のリブランディングにもつなげられればと「ミスター・ミスコンテスト」を企画したりしました。
そのころに、アップルの「Think Different」というキャッチフレーズのCMをYou Tubeで見て、強く感銘を受けたんです。広告とコミュニケーションの力ってすごい。こういう仕事をしたいと思い、卒業後は広告代理店に就職しました。2010年のことです。

クライアントに最も信頼されるプロデューサーになる。そんな目標を立てて、仕事に邁進しました。もともと、好きなことはとことんやる性向ですからね。

ALSを発症。でも、すぐに前を向く

仕事を始めて4年目の2013年9月。気づくと左手が小さく震えるようになっていました。最初はそれほど気にもしなかったのですが、これがいっこうに止まらない。忙し過ぎ? それとも飲み過ぎかな、くらいに思っていましたが、ずっと続くとさすがに心配になってくる。

検査を受けても、なかなかこれといった診断がくだらない。それで症状から考えてみずから調べてみると、ALSという病気に行き当たりました。
症状は日を追うごとに重くなっていく、けれど診断は出ない日々が続きました。ALSは断定が難しい病気なので、そういうことはよくあるのですが。

そこで僕はセカンドオピニオンを求めて、専門医である東北大学の青木正志先生のもとへ赴きました。最初の診察で、ALSとの宣告を受けました。

その瞬間は、とてもショックでした。先生は細かい説明をたくさんしてくれたんですが、そんなのちっとも頭に入らない。ある程度は覚悟をしていたつもりだったのに、涙があふれて止まらない。
僕にはあれもこれも、やりたいことがたくさんある。それなのに、ぜんぶあきらめなくちゃいけないのか? なんでよりによって、自分がこんな目に遭うんだ!

湧いてくるのはそんな思いばかり。宣告を受けてから病院にいるあいだは、これ以上ないほどに落ち込みました。付き添いで来てくれていた両親は、そんな僕の背中を無言でずっとさすり続けてくれました。

東京へ戻るため、仙台から帰りの新幹線に乗り込みました。車内ではあれやこれやと、考えがぐるぐる頭の中を駆け巡って止まらなかった。
ただそのころには、すこし落ち着きを取り戻すことができていた。2時間ほどの帰路は、濃密な時間でした。自分の身体の状況はもう変えられないのだとしたら、じゃあ自分がこれからやるべきことは何か。使命があるんじゃないだろうか。そう考え続けました。

家族だってショックは大きいだろうから、僕がなんとか前を向いていかないといけない。自分自身がまずはこれからのビジョンをしっかりと持つべき、そうでなければとうてい精神的に耐えられない。

限られた時間をどう費やしたらいちばんいいのか。詰めて考えていくほど、原点回帰の必要性に行き当たる。大学時代に自分がしたのは、社会に向けて自分のアイデアを届け、多くの人とコミュニケーションするための団体づくり。そういうことが好きで、卒業後は広告代理店にも入った。だったらこれからは、ハンディキャップを抱えた人が明るい未来をつくれるようなアイデアを、どんどん考えていこう。それが自分の使命だ!

これらすべてを帰りの新幹線で考え続けて、東京に着くころにはもう気持ちが固まっていました。

カミングアウト。WITH ALS を立ち上げる

東京に戻ってから、病状は徐々に進んでいきました。手足の力が弱くなっていって、すこし滑舌も悪くなりました。だからこそ日々、一瞬ずつを大切していかなければとの思いを新たにしていました。

広告代理店での広告プランナーの仕事は、しばらく続けました。「社会を明るくするアイデアを形に」という、学生時代からの自分のスローガンを実現できる仕事ですからね。

年が明けて2015年になると、僕は映像を制作してみずから画面に登場しました。ALSであることをカミングアウトするためです。自分の病気を明らかにしたうえで、患者の人たちも健常者も等しくすべての人たちが、今よりもっとつながっていける活動をしていこうと決めたのです。

そうして次に2016年、一般社団法人WITH ALSを立ち上げました。コミュニケーション力とテクノロジー力を使って、いろんなALS支援活動を展開していくためです。立ち上げ当初に手をつけたのは、WITH ALSのロゴマークの制作。ALSは発症してしばらくは、見た目では患者であることがわからないことも多い。でもじつは手足の動きが不自由だったりして、助けを必要とする場合がけっこうあります。マタニティーのマークと同じように、ALS患者だと周りにわかってもらえるマークをぜひ浸透させたい。そのために、WITH ALSのロゴマークをかっこいいものに仕上げたんです。

 

http://withals.com

テクノロジーとコミュニケーションを武器に、いま取り組んでいること

WITH ALSで取り組んでいる例をいくつか挙げますね。僕は小さいころから音楽好きだったので、ずっとDJをやりたいと思っていました。ALSになったからといって、その夢をあきらめたくはない。手が動かないALSでも音楽や映像で表現活動をできたらと、患者の身体の中で比較的最後まで運動機能が残る「目」、つまり眼球の動きでDJやVJができるソフトウェアの開発に取り組んでいます。

これはメガネチェーン「JINS」を展開しているジェイアイエヌとの共同開発です。もともとジェイアイエヌでは、「自分を見る」ことをコンセプトに眼鏡型のウェアラブルデバイスを開発していました。そのプロダクトを見て、これはいいと思い、アプリケーションの開発を僕のほうから申し出たかたちではじまりました。

ノーズパッド付近に3点式眼電位センサーが付いているんです。目を動かすと流れる微細な電気を感知して、信号に置き換えています。見た目はふつうのメガネとまったく同じ。軽くて長時間つけていても疲れることがない。実際に僕はこれをつけて、DJをやらせてもらっていて、快適にプレイできています。

ここで重要なのは、ふつうのメガネと見た目が変わらないこと。ALSになってショックだったのは、使うプロダクトに障害者用のものが多いんですよ。いかにも「病気の人が使うもの」という見た目や機能だと、あまりうれしくはないですよね。もっと障害者と健常者の区別を超えたものがあればいい。だからWITH ALSでは、障害者に前向きな選択肢をたくさん提供することにこだわっています。そこはやはりボーダーレスになっていったほうがいいと強く思いますね。

もうひとつの例は、電動の車椅子。僕自身も病状が進行して、すでに歩行ができなくなってきました。車椅子を生活に導入しなければならず調べてみたんですが、ALSの場合、40歳以下の患者には、介護保険が適用されず、車椅子の購入にも保険がきかないんです。30歳の僕が車椅子を買おうと思ったら、かなりの高額が必要となってしまう。

さらに、ALSは進行性の病気なのが厄介です。手の部分に操作スティックの付いた電動車椅子をようやく入手したとしても、手が動かなくなれば操作できなくなってしまいます。症状に合わせた車椅子に乗り換えていかねばならず、高価な車椅子も乗れる期間が限られてしまう。これでは困りますね。

そこで僕たちは、クラウドファンディングを立ち上げることにしました。参加者を募り、お金を集めて電動車椅子を購入し、参加者同士で貸し合えるような仕組みをつくりました。

シェアするのは、次世代型の電動車椅子「WHILL」です。操作性や機能について、実際に使う側の意見をどんどん取り入れてもらっているんです。WHILLがいいのは、見た目もかっこいいところ。先ほどのメガネと同じで、従来の車椅子はいかにも障害者用といったものばかりでした。そこに抵抗を感じていたので、WHILLはこれに乗ってアクティブに街に出かけたくなるようなものにしたかった。

ほかにも「01」というブランドを立ち上げて、ボーダーレスウェアというコンセプトでつくりました。洋服もひとつのコミュニケーション手段ですからね。まずは僕が着やすくて、周りの人も介護しやすい服が必要だというところから発想しています。

僕自身は症状が進んで最初に手に力が入りづらくなってきました。すると、ボタンがとめられなくなる。そこで、ボタンの代わりにマグネットを入れて、布同士が近づけば自然にとまるデザインにしてあります。

また、右袖の部分にはポケットが付いていて、suicaなどのICカードが入れられます。カバンから取り出さなくても、腕をかざせば電車の改札を通れるわけです。上下のセットを用意してあって、どちらもスウェット素材なので快適に動けます。リハビリはALS患者が立ち向かうべき大事な作業ですが、そのときにこれを着ていると、もうあと一歩がんばろうと思えるはずです。

WITH ALSで手がけているものはすべて、まずはかっこよさを重視。それに、健常者と障害者の垣根を超えてだれもが使用できるデザインであることをめざしています。

自分をモデルケースとしてさらけ出す覚悟

ALSをテーマにした問題や取り組みたいことは、考えれば考えるほどたくさんあります。そのなかで僕が主に扱っているのは、テクノロジーとコミュニケーションにまつわることに絞られます。

そのあたりを扱うのは、僕らの年代の役割かなと思うんです。ALS患者の平均年齢は高くて、50〜70代ということになるでしょうか。僕は26歳で発症していて、かなり若い世代に位置します。テクノロジーに感度がいいのはまちがいないので、ぜひ可能性を探っていきたい。ALSに役立つ技術革新、テクノロジーはきっとまだまだたくさんありますからね。

コミュニケーションのほうは、そもそも広告代理店でコミュニケーション設計をやってきたので、僕の得意分野です。WITH ALSという法人を立ち上げたのも、これまでの経験があったからこそです。

こういう活動をしていると、どうしても自分をモデルケースにしてさらけ出していくかたちになります。そういうことが気にならないかと言われたら、正直、気になることも多いです。でも実際のところ、ALSにまつわることを追求していくうえでは、自分が実験台になれば最もスピードが早くなります。なのでそこは割り切って実験台になろうと考えています。

日々、葛藤はありますよ。でも僕らの活動によって、できないことなんてない、限界なんてないんだと思ってくれる人がひとりでもいるのなら、こんなにうれしいことはない。

「幸せにします」と約束したのだから

周りで僕を支えてくれている人たちには、ひたすら感謝の言葉しかありません。僕がこうして自分らしくいられるのは、周りのみんなのおかげです。とくに妻には感謝のしようもないくらいですね。

僕が彼女にプロポーズしたのは、ALSの宣告を受けた数ヶ月後のことでした。プロポーズしていいものかどうか、そりゃ悩みましたよ。これから僕の病気が進行していけば、どんどん彼女を不幸にしてしまうだけなんじゃないか。

でも。ALSになったからといって、彼女を大事に思う気持ちは変わらないのもたしかなこと。断られるにしても、ちゃんと思いは伝えようと決心して、指輪を買いました。ふつうプロポーズするときって、ちゃんと根回しはしてあって、オーケーがもらえることを見込んでいるものじゃないですか? 僕の場合は、本当に五分五分でしたね。

彼女はディズニーランドが好きなので、出かけて行ってシンデレラ城の前で、
「結婚してください、絶対に幸せにします」
とプロポーズしました。

そのときに彼女と約束をしているのですから、幸せになってもらえるように、今もこれからもがんばらないといけないなと思います。
大切なものがあるほど、先行きに不安が増してしまうのは当然ですけれどね。妻より早くいなくなってしまったらどうしよう、両親も不安だろうかとか、悩むことは尽きません。まあ、ひとつずつ向き合ったり乗り越えたりしていくしかないです。

僕自身は、昨日できたことが今日もできるだろうか、明日はできなくなっちゃうんじゃないかという怖さがつきまといます。身体の変化は自分がいちばんわかりますから、常に状況に対応していくしかないです。

時間の捉え方もかなり変わりました。以前は時間が有限と頭でわかってはいても、まだまだ続いていくものだと当たり前のように思っていた。ALSで時間は有限だと突きつけられてからは、一瞬ずつに重みを感じるようになりましたね。

それでも、怖い怖いと言っているだけではしかたがない。自分の思いも体験もすべてさらけ出しながら目一杯に活動して、少しでもALSの人の役に立ちたいです。僕らはできれば、明るいニュースばかりを発信したい。そのためにも、これからもいつだって前を向いていきますよ。

 

ライター:山内宏泰(@reading_photo)

せりか基金通信インタビューシリーズはこちら

 

 

「せりか基金」に賛同してくださる方は、是非ご支援をお願いします。
直接の寄付だけではなく、シェアやリツイートも力になります。
#せりか基金をつけて投稿してください!

どうぞよろしくお願いします。

武藤将胤さんが代表を勤める「WITH ALS」:
http://withals.com/


さあ、はじめよう 想像ではうまくいってる byムッタ

「せりか基金」公式サイト:
https://landing-page.koyamachuya.com/serikafund/
チャリティーグッズ:
https://serikafund.stores.jp/

★小山宙哉とALS患者の方との対談をこちらに掲載してます。
★私の名前は酒井ひとみです ーALSと生きるー