しかし、実際に「ロボットをつくる」とはどういうことなのでしょうか?
ロボットをつくる、ということは『「月に行く」という仕事に似ているかもしれない。』ーーそう語るのはロボット開発の会社で働く村上美里さん。
ロボットづくりをもっと身近に、そしていかにそれが夢のある仕事なのかを伝えるためにコラム「隣のロボット」連載開始です!
初回である今回は、”ロボットとデザイン”について。デザインといっても見た目だけではなく、目に見えない部分もデザインすること、その深みのある作業をするデザイナーさんに焦点をあてます。
『会社の業種を選んでください』という質問を前に、いつも迷う。
私の働いているフラワー・ロボティクスという会社は、社名通りにロボットをつくっている。選択肢の中に『ロボット』が存在することはまずない。ごくまれに見つけても、『産業機器』や『ビジネス向け』などが頭につくので、家庭用ロボットをつくっている以上、それを選ぶのは一番大切な部分を誤魔化している気がする。
しばらく迷った後、たいてい妥協して『精密機器』などを選ぶのだが、座りの悪さは消えない。
「ロボットをつくる」ことは、具体的に何をしているのか想像するのが難しいという点で、「月に行く」という仕事に似ているかもしれない。ロボットも月もイメージするのは容易いけれど、“仕事”という現実感が似合わない。
ちょうど1年前、
「フラワー・ロボティクスという会社で働いてみないか」
と声をかけられた私にとっても同じだった。
開発中のPatin(パタン)という家庭用ロボットについて、またロボット全般の歴史について調べてみても、何をどうすればロボットというものが出来上がり、しかもそれが家電やパソコンのように売れるのかピンとこなかった。
だが、SFのような世界を語りながら、コツコツ地に足つけて一歩ずつ進んでいく日々を見ていたら、意外にこの道の先にはロボットと共に暮らす日々がある気がした。
Patinは2016年の冬の発売を目標に、日々開発や営業を進めている。しかし、発売はゴールではなく、私たちは「ロボットを日常の風景にする」ことを会社のビジョンとしている。
『宇宙兄弟』のファンのみなさんは、いつか月に行きたいと思っている人も多いだろう。その夢が叶う未来には、私たちの隣にロボットがいる、そんな日を想像してもらえたら嬉しい。

‐ロボットのイメージとデザイン
「これがロボットなんですか?」
先日、家庭用ロボットの購入意向がある人へ訪問調査をおこなったとき、7軒の家庭を訪問したが、持参したPatinを見せると、決まって不思議そうな顔をされた。
「ロボットがどんなものか想像もつかない」という人はあまりいないだろう。
実際、
「ロボットと聞いて何を思い浮かべますか?」
と尋ねてみれば、アトム、鉄人28号、C3-POやR2-D2、AIBO、ASIMO、あるいはドラえもんだという答えがすぐに返ってくる。メディアによって「ロボット」のイメージが強烈に固定されていることがよくわかる。
しかし重ねて、
「Patinのデザインはどう思いますか?」
と聞くと、
「デザイン……?」
と、どう表現していいかわからないように口ごもってしまう。車やテレビなどすでによく知っている製品ならば、「標準」がわかるから、あとは色や形やサイズを好みで評価できるだろう。しかし、ロボットのデザインの標準がわからないので、評価の切り口がわからないようだった。キャラクターとしてのロボットのイメージは明確なのに、「道具」としてのロボット像は漠然としている。
「ではどんなロボットが欲しいですか?」
と尋ねても同じで、
「おしゃべりしたい」
とか、
「料理や掃除をして欲しい」
という“機能”の要望は出るものの、それがどれくらいの大きさで、どんな色や質感をしていて、というイメージは浮かびにくいようであった。
だが「標準」がないというのは、開発者にとっても同じである。
ロボットとは、『センサ』『知能・制御系』『駆動系』の 3つの要素技術があるものと定義されている(※1)が、デザインについては何の制約もないのだ。
だから、開発者は提供する機能や仕様シーンにあわせて、外観のデザインを決めなくてはならない。つまりロボットは開発者の思想を映す鏡であると言える。かつて鉄腕アトムで天馬博士がアトムに亡き息子の面影を追ったように、ロボットは開発者がロボットに期待する姿が反映される。
※1 平成17年5月12日経済産業省「ロボット政策研究会」の中間報告書

‐フラワー・ロボティクスのロボットデザイン
「ロボット」と言うと、アトムやASIMO、AIBOのように人や生物を象ったものを連想する人が多いし、実際ここ数年で世に出た一般用ロボットは、ヒューマノイドと呼ばれる、人間に近い形状をしたものがほとんどだ。しかし、フラワー・ロボティクスが現在開発中のPatin(パタン)は台車のような形のロボットである。これは「家庭で使われる」ことを想定しているからだ。Patinに顔も手足もないのは、家庭用ロボットに求められる機能を果たすために、必ずしも人間的な構造は必要ないと判断したのだ。
フラワー・ロボティクスはアンチヒューマノイドというわけではない。それどころか、Patinを発表する前はヒューマノイドをつくっていた。最初のロボット『Posy』は、結婚式で花嫁に花束を渡すフラワーガールをモチーフとしている。その後もマネキン型ロボット『Palette』や鳥型ロボット『Polly』などを生み出してきた。人間、あるいは生物を想起させないロボットはPatinが初めてなのだ。

‐デザイナーがロボットを選んだ理由
私はロボットと同じくらいデザインについても疎いのだけれど、Patinを最初に見た時、
「綺麗だな」
と感じた。これは私がフラワー・ロボティクスのデザイン思想をきっちり受け取ったことを示している。
2001年の創業以来、フラワー・ロボティクスのロボットはすべて社長でありチーフデザイナーでもある松井龍哉がデザインしている。松井にとってロボットデザインとは、色や形を決めることではない。私たちが暮らす環境の中でロボットはどのように存在し、人間と関わっていくべきか、インターフェイスとしてのロボットをデザインしているのだ。
松井にとってデザインとは、現象を人が「見える・触れる・理解出来る」ように具現化することだと言う。インタビューなどでよく、「時間」という目に見えないものを「時計」という形で認識できるようにするのがデザインの役割である、という例を出す。文字盤の色やバンドの形状をデザインすることが本質ではなく、それはロボットデザインにもあてはまる。

松井がデザイナーを志したのは小学生の時だったそうだ。スター・ウォーズに熱狂した世代であるけれど、ロボットをつくろうと決めたのは29歳になろうという1999年のこと。それまでの約20年はロボットとは無縁の生活で、デザイナーを目指して勉学を重ね、大学卒業後は丹下健三・都市・建築設計研究所に勤め建築に従事する。
体調を崩したことをきっかけに退職し、キャリアをリセットするためフランスに渡り、コンピュータを学んでいたとき、人生を転換するニュースに遭遇する。それはチェスの世界チャンピオン、カスパロフにIBMのスーパーコンピュータ、ディープ・ブルーが勝利したというものである。このニュース以来、松井はテクノロジーと人間の融合に大きな可能性を感じるようになったそうだ。
松井がフランスから日本に帰国した1999年当時、パソコンが一般に普及しつつあり、ドットコムバブルが目前に迫っていた。画面の中だけで莫大な価値を生み出せる時代に突入した中、帰国直前までロータス社(現IBM)で仕事をしていた松井はなぜものづくりに回帰したのか。それは、自ら動き、考え、人間の役に立つ構造物としてのロボットに可能性を感じたからである。
「先端テクノロジーと人間の感性の融合」に関心を持っていた松井は、人間との関わりの中で存在するテクノロジー、そのインターフェイスとして最適なのがロボットだと考えた。以来、20年近くロボットデザイナーとして未来をつくろうとしている。
正直なところ、「ロボットって必要なの?」と思っていた私にとって、松井のロボットにかける期待はすぐに理解できるものではなかった。けれどだんだんと、たとえば携帯電話とインターネットが繋ったとき、もうそれがない日に戻れないように、ロボットと人間もそんな関係を築けるのではないかと考えるようになった。

‐チャレンジが未来を拓く
松井はロボットをつくる傍ら、航空会社・スターフライヤーのトータルデザインや、ダンヒル銀座本店の設計なども手がけている。松井のポートフォリオを見ると、なぜ本業とは違う仕事をしているのかと疑問に持たれるかもしれない。私もそうだった。
偏差値教育の王道を経て文系社会人になった私にとって、デザイナーとは遠くから眺める存在であった。ロボット専門のデザイナーなんているんだと思いながら、松井との顔合わせの前に経歴を調べてみると、ファーストキャリアは建築家で、ロボットエンジニアを名乗ってからも航空会社のデザインもしている。なるほど、デザイナーはどんなモノでもデザインできるのか、と感心していたのだが、仕事をはじめて、取材や講演に同席する中でどうやら松井は特殊らしいとわかってきた。
どの仕事も、ロボットデザイナーとしての松井に期待して託されたものだった。まだこの世にない、新しい航空会社を生み出したい、ブランドに新しい風を吹かせて欲しい、そんな思いがロボットという新しいチャレンジをしているデザイナーを求めたのだ。
デザインすべき対象はこの世に無数にある。その中でデザイナー自身が、なにを対象に選び、進んでいくのかで辿り着く場所は大きく変わる。松井は自身のデザイナーとしての未来もロボットに託し、飛躍をもたらした。
ロボットデザイン以外の仕事もおこなってきた松井だが、実は2001年に「ルナ・クルーズプロジェクト」という月への一週間ツアーを実現しようとしたことがある。松井が建築家としてのキャリアを転換したきっかけのひとつに、立花隆の『宇宙からの帰還』がある。この本はデザインやアートにどっぷりつかっていた松井が科学技術に目を向ける契機となった。
松井の「2015年宇宙の旅」は中断中であるが、世界のどこかで挑み続けている人がいるだろう。宇宙兄弟の舞台である2025年には、月はもう少し身近な存在になっているかもしれない。

私は前職でIoTやハードウェアに取り組むスタートアップ企業の困難を見聞きしていたから、ベンチャーでロボットをつくるなんて、しかもそれを一般の家庭に販売するなんて途方も無いチャレンジだと感じた。だが、誰も成し遂げたことがないからこそ面白いと思った。折しも第三次ロボットブームとの声が聞こえ始めていた頃で、世間の関心も日増しに高まっているところだった。「今しかできないこと」が目の前にあった。
松井はデザイナーとして成功して、アンディ・ウォーホールに写真を撮ってもらうことが夢だったそうだ。しかし高校卒業の目前、まだ何者にもなる前にウォーホルは死んでしまう。そのショックに、
「夢は早く叶えなきゃ」
と思ったという。この話を聞いて、私はPatinに夢を見ることにした。30年か50年か、100年か、時間をかけて辿り着ける場所ならばさっさと走りだしたほうがいいと思ったし、それができるかもしれないと感じた。最初の一歩を踏み出すことが何よりも難しい。
Patinプロジェクトに携わるメンバーはみんな、ロボットに夢を見て、困難な道を手探りで進んでいる。
次回はロボットをつくるために必要な思想をお伝えしたい。ロボットをつくるという発想をかけらも持ったことがなかった私は、エンジニアになぜロボットを選んだのか尋ねてみた。
いつも門外漢の私に論理的な説明をしてくれるエンジニアからは意外に感覚的な回答が返ってきた。
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〈著者プロフィール〉
村上美里
熊本県出身。2009年慶應義塾大学文学部心理学専攻卒業。市場調査会社(リサーチャー)、広告代理店(マーケティング/プロモーション)、ベンチャーキャピタル(アクセラレーター)を経て2015年1月よりフラワー・ロボティクス株式会社に入社。