人口呼吸器をつけることを決心した私を待っていたトレーニングは、まず着脱可能な人工呼吸器を使う事に慣れることだった。
病院が用意した機械は、ドライヤーのようなけたたましい音をさせていて、それを前にして緊張するなというほうが無理な話だった。しかも、サポートするためのドクターも若くて、人工呼吸器を使うことは、私と同じように初めてのようで、鼻と口を覆うマスクを持つ手から緊張感が伝わってくる。顔は鬼のようだ。
私は何が起こるのか全く分からず、思いっきりドキドキしていた。
その後、いろんなことを経験して百戦錬磨となった今の私は、当時の様子を思い出すとニヤッとしてしまう。ドクターも私も、かなり真剣な顔をしていたと思う。そこまで大変な作業ではないのに、崖を飛び降りる、そんな気持ちで臨んでいた。
呼吸器をいざ装着してみると、ちゃんと空気を肺に送ってくれているから苦しくないはずなのに、なぜか空気におぼれている感じがして苦しかった。その苦しさは、初回だけでなく、2回目、3回目と続いた。
その様子を見た呼吸器内科のドクターチームは、私にはもっと小型のものが良いと判断し、在宅用の人口呼吸器に変わった。病院の人口呼吸器と比べると、空気を送る能力では劣るものの、音はとても小さかったので、恐怖心はすぐに拭い去ることができた。それで、私は在宅用を使うことになった。医学的に呼吸器が正常に機能している「苦しく」はないはずだが、私の場合、恐怖心を拭えた後でも「苦しい」という固定観念にも似た感覚は、決して拭い去ることができず、今も続いている。この感覚は、なかなか周囲に理解されない。たくさんの人がサポートしてくれていても、ALSとの闘いは孤独との闘いだった。たくさんの患者を見ている医療関係者でも、私の感覚は理解してくれなかった。私にしか、私の感覚はわからなかった。
私は人口呼吸器に慣れるために1日に1度必ず練習し、呼吸する回数を少しずつ伸ばしていった。初日が5回なら、二日目10回という風に。かなりの回数を自然と呼吸ができるようになるにつれ、回数ではなく時間で練習をした。そして最終的に夜中ずっと装着する形になった。以前、寝たまま死んでしまうことが怖いと書いたが、寝ている時に人の呼吸というのは浅くなり、ALS患者は夜にそのまま呼吸が止まり、亡くなってしまうことがたまにある。呼吸器の装着の一番の目的は、呼吸筋を休めることはあったが、夜中の突然死の予防も重要な目的ではあった。
人工呼吸器を装着したら、苦しさが軽減してるはずなのに、痛みに似た苦しさを最初の頃は感じていた。練習していて空気が圧をかけて肺に入ってくる時に、肺がバリバリという音をたてていた。長い間、たくさん空気を吸えていなかったので、そのことにより、胸郭が固くなっていたのだろう。使われていなかった肺に、空気がまた入ってくる痛み。それは、空気が入ってくる喜びなどではなかった。この痛み、苦しみを私は誰かに理解してもらいたかった。でも、誰も理解してくれなかった。理解できないのは当たり前だと今ならわかる。でも、当時は、理解してほしいという気持ちだけが前に出ていた。
(上)欠かさずいくようになった東京ビックサイトで開催されている国際福祉機器展に行った時のもの
(下)福祉機器展に行くために買ったブーツを履けるように、当時お世話になっていた先生が一生懸命考えてくれた、指先をまがらせることなく靴をはく事ができる包帯の巻き方。このあと自分で考えたテーピングの方法で、スマートにまとめることができ、大抵のものははけるようになりました。
呼吸器をつけだして、退院して、自宅で療養することになった。はじめは夜中だけだったのが、退院時期にはもう呼吸器なしでは生活できなくなっていた。人工呼吸器の鼻マスク型の物を24時間付けていた時の写真
介護は、母と主人が中心となってくれて、いわゆる”家族介護”だった。長くは続かないだろうなと私は思っていた。母は横浜の家から連泊で来てくれていたし、主人は仕事を辞め、私と四六時中私といた。二人とも無理をして、介護をしていた。
そして、だんだんと主人は友達と飲みに行くと朝になっても帰ってこないことが増えた。その頃の私は、本当に臆病者だった。夫がそうなってしまったのは、明らかに自分が原因だとわかっていたから、何も咎めることができなかった。自分の心の中で闘い、いつも最終的に「別れよう」という言葉しか言えなかった。だが、そんな言葉を投げても、「また始まった」と思っているのか、主人はいつもと変わらないように接してきた。
私は自分の心の中にある感情を誰にも話すことができず、どんどん自分は孤独だと考えるようになっていった。
気分転換としてさくらを見に、呼吸器にバッテリーを付けて出掛けたことがあった。しかし、帰り道、突然バッテリーが切れてしまった。そこから10分程度、家まで大慌てで帰ることになった。このことがきっかけで、ますます外に出かけれなくなった。外出は隣りの小さな公園か、病院に行く時くらいだった。時々遊びに来てくれる友達くらいしか、人にも会うことがなくなった。
隣の小さな公園でトレーニング中の写真
家から自由に外に出て行く母や主人をうらやましく、同時に妬ましく思うようになっていった。
孤独なのは、母も主人も同じだった。ALSの家族を介護する大変さを誰とも共有できなかっただろう。でも、当時の私は、私だけが孤独と闘っていて、介護はしてくれるけど、私を孤独からは救ってくれないと感じていた。
精神的にどんどんと追い詰められていき、私の精神は崩壊の寸前だったと思う。
私の病状も悪化していった。時々誤嚥して酸素飽和度が80%台になる事もすくなくかった。そして、往診できたドクターに告げられた。「そろそろ、気管切開の時期だと思うんだけど、酒井さんどうする?」と。時々誤嚥はするけどたぶんまだまだ大丈夫と思っていた私に向けられた現実だった。私は「やります」と答えた。気づいたときには、涙がほほを伝っていた。
気管切開をすると、ますます、周りとのコミュニケーションは減る。私の孤独はもっともっと深くなってしまう。どうすればいいのか、全く見当がつかないまま手術のための入院の日は近づいていた。
しかし、私は人生のターニングポイントとなる出会いをすることになる。その人は、私を孤独の絶望の谷から救い上げてくれた。それは、主人や母にもできないことだった。いや、その人は、主人や母をも孤独から救ったのだ。
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<著者プロフィール>
酒井ひとみ
東京都出身。2007年6月頃にALSを発症。”ALSはきっといつか治る病気だ”という強い意志をもちながら、ALSの理解を深める為の啓蒙活動に取り組んでいる。仕事や子育てをしながら、夫と2人の子供と楽しく生活している。
これまでの回を読む
第一回: 私の名前は酒井ひとみです ーALSと生きるー
第二回: ALS発症と、最初の受診
第三回: せめて病名さえはっきりすれば…
第四回: 思うように動かない体…私は何の病気なの?
第五回: 突然の宣告と初めての涙
第六回: 私がママだ!!
第七回: ぬぐえない涙
第八回: 二つの決心