宇宙飛行士の頼れる専属ドクター
病院で勤務する傍ら、フライトサージャン(FS)への挑戦を続けてきた樋口勝嗣。
その情熱を実らせ、今は子供の頃に夢見た『宇宙』を舞台に、医師としてのキャリアを宇宙開発の現場で生かしている。
フライトサージャンの役割は、宇宙飛行士の健康を維持すること。地上訓練、宇宙飛行中、地球帰還後のリハビリまで、宇宙飛行士の医学検査を定期的に続け、病気や怪我を未然に防ぎ、宇宙飛行士の健康を長期間にわたり管理している。
ISSミッションで金井宣茂の専任FSを担当した樋口は、次なるミッションでも野口聡一の専任FSに就任し、宇宙飛行士の心と体を見守り続けている。
Comic Character
久城光利
「〝やや影の薄い天才〟ってよくいわれますけどね」
【職業】 フライトサージャン
【出身地】 日本
【略歴】
白衣、黒縁眼鏡、首にかけたヘッドホンがトレードマークの久城光利。ゲーム好きが高じ、月面基地にあるパワーショベルの遠隔操作にも腕前を発揮する『器用な医師』。月面で怪我を負った宇宙飛行士を救うため、宇宙で初めてとなる手術にも地上から冷静にサポートした。宇宙飛行士の命と健康を守るため、さまざまな場面で適確かつ迅速な判断を下していく。
Real Character
樋口勝嗣
「しつこさは、仕事の面でも生きていく上でも大事です」
【職業】 宇宙飛行士健康管理グループ 主任医長
【生年月日】 1972年
【出身地】 日本・奈良県
【略歴】
1999年3月 神戸大学医学部医学科卒業後、内科、循環器内科、神経内科研修医として大学病院や民間病院にて勤務。
2007年4月 社会医療法人愛仁会高槻病院で神経内科医として勤務。その後、医長に就任。
2016年4月 JAXAに入社。海外研修を経て、同年よりJAXAフライトサージャン、ISSフライトサージャンの認定を受ける。
2017年1月 ISS第54次/第55次長期滞在ミッションにおいて金井宇宙飛行士の専任フライトサージャンに就任。
2018年3月 ISS第62次/第63次長期滞在ミッションにおいて野口宇宙飛行士の専任フライトサージャンに就任。
●『宇宙兄弟』では、月面基地で怪我した宇宙飛行士の緊急手術をするシーンがありましたが、現実的に手術などは想定されているんですか?
樋口「怪我を負ったベティをカルロが緊急手術する場面ですね。久城が、ベティの状態は地上でしっかり見ているからと、カルロを落ち着かせて手術をサポートしてました。格好良かったですよね。ただ、我々が関わっている現場は宇宙ステーションなので、ベティが受けたようなタイプの怪我は非常に稀だと考えられます。それよりISSの構造に起因する緊急事態、例えば火災や急減圧、アンモニア漏れ(有毒ガスの流出)などへの対処について主に想定しています。大きな怪我をした場合、軌道上では応急処置のレベルができればいいとされています。本格的な手術に関しては無重力下で、しかも限られた医療器具で「実際どうやって手術するんだ!?」というところが、我々の間でもまだ検討段階です。ISSの場合、月面とは違いすぐ地上に帰ってくることができますので、そこまで医療の自律性は要求されていません。裏を返せば、これから月面や火星探査を考えた場合、飛行士の中に何名、どのレベルの医療職を配置する必要があるかを考えていく必要があります」
船外活動中も、そして帰還後も
●金井さんが船外活動をしていたときは?
樋口「私は船外活動の様子と各データを、リアルタイムでモニタリングしていました。金井さんのバイタルデータや、宇宙服の中の温度がどうなっているか、酸素濃度や炭酸ガス濃度がどれぐらいか、バッテリーはあと何時間もつか、そういった情報をチェックしながら、このまま作業を続けていいのか、中断しなきゃいけないのか医学的に判断するためです。とにかく金井さんは今回が初めての宇宙飛行で、しかも初めての船外活動だったわけで、一番緊張するところじゃないかと。そこが一番心配でした」
●やはり船外活動は特殊ですか?
樋口「そうですね。事前準備から入れると丸一日かけて行うミッションですし、ISSの外という特殊な環境で行われますので。いくら地上で訓練を重ねているとはいえ、本番はまた気持ちが違うと思うんです。それに飛行士全員が実際に経験できるミッションではありません。そういった点でのプレッシャーや緊張ですよね。普段マラソンしていても、大会への出場経験がない人が初めて実際の大会に出て走る、というのと同じじゃないでしょうか。逆に頑張り過ぎないか心配でしたね。最初に走り過ぎて途中でへばったらどうしようとか。そういうこともこちらは考えなきゃいけません」
●船外活動の前には金井さんと話しましたか?
樋口「『プライベート・メディカル・カンファレンス』は基本1週間に1回なんですが、船外活動の前と後には、特別に追加で行うんですね。そこでいろいろ話をしました」
●「緊張してる?」とか聞いたんですか?
樋口「『緊張してる?』と聞いたら、きっと『してない』というでしょうし(笑)。普段の会話をしながら表情や動きなどをよく観察して、精神科の先生の意見も聞いた上で、金井さんは心身ともに船外活動を十分こなせる状態だと判断しました」
●金井さんが帰還したときは?
樋口「カザフスタンの荒野にある帰還予定地にヘリで飛んで、帰還船がパラシュートを開いて着地した後、合流しました」
●帰還した金井さんへの第一声は?
樋口「やっぱり『おかえりなさい』ですね(笑)。本当はその後のリハビリテーションもあるのですが、まずは無事地球に帰ってくるのが一番の山場です」
●その後はどんなことを?
樋口「すぐ近くにメディカルテントを建て、そこに飛行士を運んで、異常がないか医学検査をします。飛行士が地上に帰ってきた直後は、無重力に慣れていた体が、いきなり1Gの重力にさらされ、頭の方に寄っていた水分が重力で下に落ちてきて立ちくらみしやすい状態なので、飛行士はすごくしんどいんですね。その段階で、飛行士の立ちくらみがどれくらいなのか、またそれ以外の問題がないかを最初にチェックします。例えば帰還時に怪我をしているとか、何か隠れた症状があるかもしれないので、そこに注意します。そういった問診や血圧・呼吸数・体温などの数値から判断して、さらなる検査が必要であれば病院にすぐ搬送しますし、大丈夫そうなら、そのままカザフスタンの空港にヘリで向かいます」
●帰還後の飛行士はどのくらいリハビリが必要なんですか?
樋口「NASAでは、日常生活に戻るために45日間のリハビリテーションを行っています。でも無重力下で萎えてしまった筋力や運動能力を完全に回復させるには、半年くらいかけてリハビリを続けていきます。そこは運動機能の面で指導する専門家がいますので、彼らと協力しながらやっています。まずは、飛行士が帰宅して家族と普段通り過ごしたり、通勤や買い物で車を運転したり、日常生活を問題なく送ることができるようにすることが先決です」
●宇宙から帰ってきたばかりのときは、車の運転も難しいのですか?
樋口「帰ってきて、すぐに車の運転はできませんね。たぶん誰もできないと思います。たとえ手足にその力があったとしても、脳と耳のバランス感覚が地上にいたときと違います。ハンドルをどれだけ切ればどれだけ曲がるかわからないですし、危険です。車の運転ができるようになるのは、かなりリハビリが進んだ頃になります。ですから、帰還直後の飛行士には一人ひとりに専用のバンと専属の運転手がつくんです。車の運転の許可を出す判断は、フライトサージャンの仕事になります」
胸に留めるのは六太の台詞「宇宙の話をしよう」
●フライトサージャンとして仕事の醍醐味は何ですか?
樋口「今や、宇宙飛行士が宇宙ステーションに滞在していることが、当たり前のような時代です。でも、宇宙飛行士の安全や健康が、百パーセント確立されているわけではありません。ある飛行士がミッション中に、地上の検診では検出されなかった病気が出て、早期に地上に帰還させることを検討させたなど、飛行士の健康が危ぶまれた例が過去にはあったそうです。またこの前も、ソユーズロケットが打ち上がった直後にトラブルが発生して、宇宙船を緊急離脱させて事なきを得た事故(2018年10月のMS─10)がありました。あれは緊急離脱が成功して良かったわけですけど、下手したら宇宙船も爆発してたとか、そういうこともあり得るわけです。ですから、まだ宇宙に行くこと自体、何も起きないとはいえないんです。そんな中でフライトサージャンとしては、やはり飛行士のみなさんが宇宙で健康で問題なく仕事をして、無事に地上に帰ってくるということが、何より一番嬉しいです」
●宇宙飛行士の健康と命を守るという責務の中で、大切にしている信念はありますか?
樋口「『宇宙兄弟』の中で好きな台詞があります。選抜試験のとき閉鎖環境施設の中で、お互いが疑心暗鬼になって険悪になる場面が描かれていました。でもそのとき六太が『宇宙の話をしよう』といって、チームの雰囲気を変えるエピソードがあります。実は、フライトサージャン同士や違うチームのスタッフとの間で、意見の対立が起こることがあり、そこで険悪なムードになるときもあります。そんなとき、六太の言葉を思い出して『今ここにいる人はみんな、宇宙のことが好きで集まっているんだ』と思い直すと、私自身も宇宙のことを考えてハッピーな気持ちに切り替えられるんです。結局、みんな根っこの部分は、宇宙飛行士の命を一番に考え、宇宙開発を成功させようという信念にもとづいて意見をいっているんだから、異なる主張にも耳を貸して理解しようという気になれます。意見が違っても、みんな同じ夢と目標と信念を持つ同類なわけですから。何か対立があったときは、六太の台詞を思い出すんです」
【フライトサージャン、リアル】
夢を叶えるしつこさ
『宇宙兄弟』の大ファンで、漫画はもちろん、アニメや映画も見逃さず、原画展でグッズを購入し、部屋に誇らしげに飾っているという樋口さん。『宇宙兄弟』を『自分のバイブル』と呼び、好きなキャラクターを聞けば「誰か一人だけ好きというのはなく、みんなそろっての『宇宙兄弟』ですから。」と返ってくる。
宇宙を夢見た子供時代。しかし医師であるご両親の期待に応えるため、医学の道へと方向転換。神経内科の医師として活躍中のある日、宇宙飛行士の募集を耳にし、あの頃の夢がよみがえる。
一念発起で選抜試験に挑戦するも、落第。しかし一緒に受験した仲間から、フライトサージャン(FS)の存在を聞いて、続けざまに採用試験に挑戦するも、また落第。それでもすぐさま関連する学会に入り、関係者に猛アピールを続けること5、6年。晴れて採用に至る。
そんな情熱と継続力を、本人は『しつこさ』と呼ぶ。しつこく情報を集め、しつこく人との縁を探り、しつこく挑戦を続ける……。樋口さんの『しつこさ』には、その言葉の暑苦しい響きとは裏腹に、夢を叶える清々しい力を感じた。
フライトサージャンのスキル5
<1> 調整力
樋口「同じJAXAのフライトサージャンだけでなく、他の国の宇宙機関の医療職・医学部門や、飛行士グループなど、他部門との調整がよくあります」
<2> 前向きな姿勢
樋口「医師としてある程度キャリアがあっても、フライトサージャンとして別分野の知識や技術を学ぶ必要があり、もう一度研修医に立ち返って学び直す、前向きな意識が必要です」
<3> 交渉力
樋口「常時は、医学検査時期について関係部門と交渉したりします。医学問題でミッションの変更が必要になるときのような緊急案件なら、フライトディレクタに強く変更を要求して交渉することもあります」
<4> 直観力
樋口「通常は直感を使う機会はないし、逆に直感に頼る状況を作らないことが大事です。病気や怪我をしてからの対処ではなく、病気や怪我になりそうなポイントや予防法をあらかじめ考えておくことが重要です。ただし何が起こるかわからないクリティカルな運用(船外活動中など)や緊急時では、直感が必要になる場面もあると思います」
<5> 根気
油井「専任フライトサージャンになると数年は海外勤務となります。そういう意味では宇宙飛行士に近い勤務形態です。海外で一人勤務し、飛行士の帰還時には24時間以上勤務が続くハードな場面も。負けずに耐えられる根気が必要です」
【宇宙兄弟リアル】が書籍になりました!
『宇宙兄弟』に登場する個性溢れるキャラクターたちのモデルともなったリアル(実在)な人々を、『JAXA』の中で探し出し、リアルな話を聞いているこの連載が書籍化!大幅加筆で、よりリアルな宇宙開発の最前線の現場の空気感をお届けいたします。
<筆者紹介> 岡田茂(オカダ シゲル)
東京生まれ、神奈川育ち。東京農業大学卒業後、農業とは無関係のIT関連の業界新聞社の記者・編集者を経て、現在も農業とは無関係の映像業界の仕事に従事。いつか何らかの形で農業に貢献したいと願っている。宇宙開発に関連した仕事では、児童書「宇宙がきみをまっている 若田光一」(汐文社)、インタビュー写真集「宇宙飛行 〜行ってみてわかってこと、伝えたいこと〜 若田光一」(日本実業出版社)、図鑑「大解明!!宇宙飛行士」全3巻(汐文社)、ビジネス書「一瞬で判断する力 若田光一」(日本実業出版社)、TV番組「情熱大陸 宇宙飛行士・若田光一」(MBS)、TV番組「宇宙世紀の日本人」(ヒストリーチャンネル)、TV番組「月面着陸40周年スペシャル〜アポロ計画、偉大なる1歩〜」(ヒストリーチャンネル)等がある。
<連載ロゴ制作> 栗原智幸
デザイナー兼野菜農家。千葉で野菜を作りながら、Tシャツ、Webバナー広告、各種ロゴ、コンサート・演劇等の公演チラシのデザイン、また映像制作に従事している。『宇宙兄弟』の愛読者。好きなキャラは宇宙飛行士を舞台役者に例えた紫三世。自身も劇団(タッタタ探検組合)に所属する役者の顔も持っている。
過去の「宇宙兄弟リアル」はこちらから!