突然の宣告と初めての涙 【第五回】私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー | 『宇宙兄弟』公式サイト

突然の宣告と初めての涙 【第五回】私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー

2016.09.07
text by:編集部コルク
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足の不調の原因を明らかにする為に、東京の病院に通うことになった酒井ひとみさん。明らかになる病名に早く近づきたいという思いから、検査を次々と受けていきます。ある日、ドクターとやりとりの中で、左足だけがやせ細ってきたことを訴えたところ、緊急入院することに。「ただ病名を知りたい」と強く願っていた彼女に突きつけられた答えと、その時に彼女が泣いた理由とは…
私の名前は酒井ひとみです―ALSと生きる—の第五回です。

私は、仕事が休みの平日を利用して、東京の病院に通った。仕事が終わって一旦帰宅し、夜の10時過ぎに家を出て、12時半を過ぎたころに都内の実家に着くスケジュールで、2週間おきに通った。まだ、6歳の娘ともうすぐ5歳になる息子は、当時住んでいた家においていった。子供たちとこんなに長い時間離れているのは、その時が初めてだった。だから、手持ちぶさただったし、自分が子供が親に依存する以上に、子どもに依存しているなと思った瞬間でもあった。

入院するまでの間、前の病院でも受けたことがある神経伝達検査と、新たに針筋電図という検査を、少しずつ受けはじめていた。

神経伝達検査は、皮膚の上から神経の走っている場所をみつけて、電気刺激を与え、速度を計測する検査である。私は少し下がっているが、そこまで強い刺激を与えなくても計測できたようで、痛みはゴムではじかれる程度だった。

対して針筋電図は、今まで受けた検査の中でも一番痛かった。想像してみてほしい。長くて太い針を、麻酔なしで筋肉に直接刺して、波形が出るところを探り見つけ出して、その針を刺したまま筋肉を動かさずにいなければならないのだ。この検査は動かしている時の波形を見るのだが、太い針が麻酔なしで刺さっているのに加え、その検査を受けている部位を動かさなければいけないのだ。今考えれば、動けていた頃の方が痛く無かったもしれないと思う。

この二つの検査を受けながら、これでやっと、私を苦しめていた原因不明の病気が分かるんだ、という少し安堵した気持ちと、病名が分かってしまうことの恐さの、二つの矛盾した感情を抱えていた。病名が明らかになるのは嬉しいけれど、それはたいした病気じゃなかった場合で、もし大きな病気だったら、と検査中も頭をよぎった。でも、それはその時に考えよう、と思っていた。ちゃんと知りたかった答えに近づいている。それだけで、その時の私には十分だった。

 

年があけた1月4日に外来に行った時、ドクターに「片足だけ痩せたとかないでしょ?」と聞かれた。そういえば、その前の年の夏くらいから、左足だけが妙にズボンがガバガバになってきているなぁ、と思っていたので、それを初めて口にした。それが自分の病気と関係しているとは夢にも思わなかった。するとドクターが謝りながら、「もっと早く診とけばよかったね。今日中に入院する手続きをしましょう。」と言った。「そんなに私悪いの?私の体で何が起きているの?」という疑問が頭の中を駆け巡っている中でも、どこかに冷静な自分がいて、どこに連絡して、何をしなくてはいけない、ということを自然と考え、行動させていていた。

慌ただしく入院の手続きをして、入院した。再度髄液の検査や、いろいろな部位のMRIを撮ったり、脳波や視神経にものすごい電気刺激をあたえる検査を受けたり、本当に消去法で1つ1つ検査しているのがわかった。そして、あっという間に2週間が過ぎていた。

週末は病院が休みなので、実家に帰り、そこで泊まりにきている主人と子供たちに会う生活を送っていた。2週間ほど経った週末、その時担当してくれたドクターに主人と一緒に呼ばれ、現段階で可能性の高い病名を3個あげられた。その中にALS(筋委縮性側索硬化症)も含まれていたが、どういう病気なのかは、ドクターの口から語られることはなかった。その3つの病名が書いてある紙をもらい、実家に帰ったあと、すぐ家庭の医学書で調べてみてびっくりした。挙げられた3つの病名のうち、自分の今までの症状とぴったり当てはまるものが、ALSだったのだ。

家庭の医学書には、『日本語名は筋萎縮性側索硬化症といい、運動神経が冒されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病』で、『病気が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、次第に話すことも食べることも、呼吸することさえも困難になってきます』と書かれていた。そして、『平均3~5年で死に至る』、『比較的50代から60代の男性が発症することが多い』とも書かれていた。

自分が今まで悩まされてきた症状とほぼ一致していた。きっとこの病気にちがいないと思う反面、違う病気に決まっている、と半ば祈りにも似た思いでいた。もしALSだったら、と考えると何も出来なくなりそうだったし、何も想像出来なかった。ただ、きっと、ALSじゃない、他の病気の可能性もあるんだと信じることで、何とか自分を保てていたのかもしれない。まさか、こんな珍しい病気に私がなる訳がない、と信じたかったのかもしれない。でも、今思えば、ALSであるかもしれないという可能性を受け入れられなそうだったから、無意識に目を背けようとしていたんだと思う。

次の日、子供に自分の病気の説明をした。

冷静であるはずの私が、自分の病気で泣いたのは、この時が初めてだった。初めて、人前で声をあげて泣いた。せめて子供たちの前では母親として強くいなきゃ、と思ったけれど、抑えきれなかった。あれだけ欲していた病名が分かったというのに、それを家族に告げることが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。夫に、子供たちに、申し訳なかったし、何よりも悔しかった。何で私が、愛する子供たちにこんな事を告げなければならないのだろう。愛する子供たちを悲しませなければならないのだろう。何で私がALSになってしまったのだろう。

人前だとは分かっていても、涙を止められなかった。

自分の子供であまり物事を理解していない時期だったと判断したから、気が緩んだこともあったのかもしれない。これがもしも今起きた事なら、あのときから成長している今の子供達にはきっと何も言えない。自分のために、大切な人たちが泣く姿なんて見たくないからだ。私は、たとえ子供であろうとも、真実を知っていてほしい。もしも逆の立場だったら、絶対にしらせて欲しかったと思うに違いない。私がもしも死んでしまった後に、「ママは嘘つきだ。」と思われるのも嫌だったし、それにそんなやわな子に育てた覚えはなかった。

しかし、一通り説明した後、子供たちはケタケタと笑いながら「あー!ママ泣いてる!」と言っていた。それが私にはとても嬉しく思えた。私の話をいつものように聞いてくれる家族に、酒井家らしさを感じ、安心して何でも話せると確信したのだ。また、私も病名を受け入れる覚悟が出来たような気がした。

00当時、子供たちとテーマパークに行った時の写真

そして病院に戻り、何も検査せずに2週間が過ぎた。
そして、1回目の確定診断は、突然訪れた。とある日の夜八時くらい、外来の担当医が急に病室に訪れたのだ。「ALSの可能性が極めて高い」と言った。その時もやはり、ドクターの口から、病気の説明はなかった。

そうして、心細い夜を1人で過ごした。どんな病気なのか、説明を聞けていなかったということもあったが、それ以上にこれから自分はどうなってしまうのか、家族はどうなってしまうのかと考え続けていた。きっと病名がALSだったとしても、あたたかい家族という支えがある今の自分なら、受け止められるかもしれない。しかしその一方、だんだんといつもと同じ生活が出来なくなる自分が全く想像つかなくて、不安に押しつぶされそうだった。

次に主人が来た時に、主人が「他の病気の可能性は絶対ないのか」とドクターにしつこく詰め寄り、免疫異常の病気の可能性をなんとか聞き出した。もしもその病気だった場合、免疫抑制剤が効くはずだが、あまり期待しないほうがいいと言われた。それでも、「もう治らない病気かもしれないとわかった以上、藁にも縋る気持ちで可能性があるものにはチャレンジしたい」という私の気持ちと、それを理解してくれる主人の気持ちが合わさり、二人で、いいや四人で乗り越えると決めた瞬間だった。

でも、私の心の奥底では、「私が呼吸器をつけてまで生きることが、家族にとって本当の幸せなのだろうか?」という気持ちもあった。

(第6回へ続く)


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<著者プロフィール>
酒井ひとみ
東京都出身。2007年6月頃にALSを発症。”ALSはきっといつか治る病気だ”という強い意志をもちながら、ALSの理解を深める為の啓蒙活動に取り組んでいる。仕事や子育てをしながら、夫と2人の子供と楽しく生活している。

第四回はこちらから
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