夢にとって自由とは、花にとっての水のようなものだ。
フォン・ブラウンの宇宙への夢も、ドイツが自由だった時代に芽生え、長く厳しい冬を越し、自由を求めて渡ったアメリカで「月旅行」という大きな花を咲かせたのだった。
1920年代から30年代初頭のベルリンは、二つの大戦の間の短い平和と自由の季節を謳歌していた。この季節に、ドイツの「ロケットの父」オーベルトの本に触発されたベルリンの若者たちは、遠い宇宙への夢を膨らませ、アマチュアロケット・グループVfRを結成した。彼らは廃止された弾薬集積場の跡地を借りて「Raketenflugplatz(ロケット飛行場)」の看板を掲げ、日夜手作りでロケットの開発をした。
この幸せな季節が終わる間際に駆け込むように、大学生としてベルリンに戻ってきたフォン・ブラウンはVfRに加わった。冬の足音は、すぐそこに聞こえていた。
VfRの主要メンバー。右から2番目がフォン・ブラウン。(Smithsonian National Air and Space Museum. https://airandspace.si.edu/ )
この時期、ドイツ軍はロケットという技術に並々ならぬ興味を抱いていた。その理由は条約の「抜け穴」をくぐるためだったと言われている。第一次世界大戦に負けたドイツはベルサイユ条約によって軍備が厳しく制限されていた。たとえば飛行機は製造禁止、戦艦は6隻まで、といった具合だ。だが、ロケットに関しては何の制約もなかった。ロケットとミサイルは技術的には全く同じものである。ベルサイユ条約が結ばれた1919年には、ミサイルが実用的な兵器になるとは、誰も予想していなかったのだろう。
VfRにドイツ陸軍の黒塗りのセダンがやってきたのは1932年。車に乗っていた技術将校たちの目的はもちろん、VfRのロケットだった。VfRは金欠だったから、軍から開発費を取れれば願ったり叶ったりだった。だが、軍が立ち会った実験は、ロケットがあらぬ方向に飛んで大失敗した。軍はVfRに失望した。
一方で、軍は思わぬ掘り出し物を見つけた。 フォン・ブラウンだった。燃えるように熱い宇宙への夢を抱いたこの若者はまた、20歳とは思えない知識とリーダーシップ、そしてカリスマを備えていた。軍はこの男に惚れた。そこで VfRのロケットを買う代わりに、フォン・ブラウンを、彼の夢と一緒に買い取ることにしたのだった。
フォン・ブラウンは軍に雇われることに何の迷いもなかった。夢を叶えるためには金が要る。そして軍は金を持っている。 それをフォン・ブラウンは冷徹に理解していた。彼はこう回想している。
「オモチャのような液体燃料ロケットを、宇宙船を打ち上げられる本格的な機械にするために必要な莫大な金額について、私は何の幻影も抱いていなかった。私にとって陸軍の資金は、宇宙旅行に向けた大きな進歩のための唯一の希望だった。」
陸軍に雇われたフォン・ブラウンが最初に開発したロケットは、A-1と呼ばれる、長さたった1.4 m、重さ150 kgのロケットだった。1年半かけて開発したこのロケットは打ち上げ後1秒半で爆発した。
その頃、ドイツは大きく揺れていた。彼が陸軍に雇われた翌年にヒトラーが首相に就任し、やがて独裁的権力を手にした。1935年、ドイツはベルサイユ条約を破棄して再軍備宣言をし、1939年には再び世界大戦が始まった。
だが、国情の変化はフォン・ブラウンの仕事環境にはすぐには変化を及ぼさなかった。彼はまるで歴史から切り離されたように、宇宙への夢に取り憑かれ、ロケット開発に熱中していた。彼は失敗と試行錯誤を繰り返しながらだんだんとロケットを大型化した。それにつれて開発チームも加速度的に大きくなっていった。
それから11年後の歳月が流れた。フォン・ブラウンはついに宇宙への扉を叩くロケットを完成させた。長さ14メートル。重さ12.5トン。怪物のようなロケットだった。秒速7.9 kmの軌道速度に達することはできないものの、垂直に打てば高度200 kmの宇宙空間に達する能力を持っていた。斜めに打てば、320 km離れた標的に1トンの爆弾を命中させることができた。
この時すでにドイツは敗色濃厚だった。ヒトラーはこの最終兵器が戦況を一気に逆転することを期待した。フォン・ブラウンの夢と悪魔の野望が結婚して生まれた怪物には、「報復兵器2号」を意味するVergeltungswaffe 2、略してV-2という悲しい名が与えた。
1943年に行われたV-2の発射実験。(Credit: Bundesarchiv, Bild 141-1880 / CC-BY-SA 3.0)
V-2ロケットの革新的テクノロジー:誘導制御システム
フォン・ブラウンは、ただロケットを大型化するだけでは彼の夢は叶わないことを理解していた。ただ飛ぶだけでは月に行けない。ロケットを望む方向へ、望む速さで、正確に飛ばさなくてはいけない。そのために必要なのが、誘導制御システムである。
全く同じ技術が、ロケットをミサイルとして使うためにも必要となる。ただ飛ぶだけではなく、ターゲットに正確に命中させなくてはいけないからだ。
またしても、フォン・ブラウンの夢とヒトラーの野望の利害は完全に一致した。そしてこの悲劇的な偶然をフォン・ブラウンは利用した。ドイツ軍の潤沢な資金を用い、誘導制御システムを実用化したのだった。これこそがV-2がもたらした最大の技術革新と言えよう。現代のすべての宇宙ロケットにも誘導制御システムが積まれている。そして基本的な仕組みはV-2のものと同じだ 。
誘導制御システムの仕組みは秋田の竿燈に似ている。あるいは学校の掃除の時間に、ほうきを手のひらの上に立てて遊んだ経験があるだろう。コツは簡単だ。ほうきが倒れそうになったら、その方向に手を動かして傾きを元に戻すだけだ。
ロケットも同じである。飛びたい方向からずれそうになったら、ジェットの向きを変えて元に戻すのである。ただし、それを手動ではなく、全自動で行う必要がある。
では、どうやってロケットは自分が飛んでいる方向を知るのだろうか。
コマを使う。そう、正月に子供が回して遊ぶコマである。コマは回っている間、軸を常に同じ方向に向けようとする性質がある。(だからコマは倒れない。)そこでロケットに回っているコマを積む。ロケットが傾いてもコマの軸の向きは変わらないので、ロケットに乗っている人から観察すると、あたかもコマが傾くように見える。これによってロケットは自らの傾きを検出できるのだ。専門用語では、コマではなくジャイロスコープと呼ばれる。
ジェットの方向はどうやって変えるのか。現代のロケットはロケットノズル自体を動かして方向を変えるのが一般的な方法だ。そう、あの巨大なロケットノズルが、首を振るように動くのである。一方、V-2ロケットは、ロケットノズルのすぐ後ろに置かれた可動式の4枚の耐熱板を動かすことで、ジェットの方向を変える方式だった。
そして、どのくらいジェットの方向を変えれば良いのかを計算するためのコンピューターがいる。コンピューターと言っても、V-2のコンピューターは現代のものとは似ても似つかないものだ。まず、デジタルではなくアナログである。そして回路は半導体ではなく真空管でできていた。現代からすれば原始的にすら思える電子部品を職人芸のように組み合わせ、微分や積分を行う回路を組んでいた。
V-2に搭載されていた汎用アナログコンピューター。Courtecy of Arthur O. Bauer.
ロケットは13世紀には発明され戦争に使われていたが、とこへ飛ぶかわからない無邪気な兵器だった。その主な役割は、音と光で相手を威嚇することに限られていた。誘導制御システムが搭載されてはじめて、ロケットは目標を正確に破壊する冷酷な殺戮者となった。そして同時に、フォン・ブラウンの夢を宇宙へと運ぶのに必要な力も得たのだった。
悲しきロケット
そうして生まれたフォン・ブラウンの夢の落とし子は、1944年9月8日、オランダのハーグ近郊から、猛烈な火を吹いて空に向け飛び立った。その悲しきロケットは最初は垂直に飛び立ったが、やがて西に向けて機首を傾けた。その間にもぐんぐん高度を上げ、雲を抜け、数分のうちに星が輝く宇宙空間に達した。眼下には丸みを帯びた青く美しい地球の水平線が見えた。ロケットはほんの数分間だけ、フォン・ブラウンが幼い頃から夢見続けた宇宙を漂った。
しかしやがて地球の重力に引かれ、ロケットは加速しながら高度を落としだした。ぐんぐん近くなる地面。雲の下に出ると夕方のロンドンの街の灯りが見えた。その真ん中をめがけて、ロケットは猛烈な速さで突っ込んでいった。そして午後6時43分、ロケットは道路に激突し、積まれていた1トンの爆弾が炸裂した。近くにいた不運な3人が命を落とした。その中には3歳の女の子も含まれていた。
フォン・ブラウンはV-2の「成功」のニュースを聞き、仲間にこう漏らした。
「ロケットは完璧に作動した。間違った惑星に着陸してしまったことを除いては。」
V-2により破壊されたロンドンの市街地
そう、いくら地上で人が死んでいても、彼の心は常に宇宙にあった。いくらナチスでも人の心には干渉できない。そのはずだった。
この年の3月、フォン・ブラウンはパーティーで大酒を飲んで酔っ払い、無邪気に宇宙への夢を仲間に語った。まさかそれが後に重大な問題になるとは知りもせずに。
3月22日の夜2時頃。出張先のホテルで眠っていたフォン・ブラウンは、ドアを叩く音に目を覚ました。ドアを開けた彼は驚いた。そこにいたのは秘密警察ゲシュタポのエージェントだったのだ。彼らは警察署に同行するようにフォン・ブラウンに求めた。
「つまり私を逮捕するということか?何かの誤解にちがいない!」
「逮捕するとは言っていない!お前を保護拘置するよう緊急の命令が下ったのだ。」
ゲシュタポには逆らえない。フォン・ブラウンは着替えて荷物をまとめ、エージェントについてホテルを出た。外には車が待っていた。警察署に着くと、彼は監房に入れられた。
罪状はサボタージュ。宇宙船を作るためにロケット開発を遅延させたと咎められた。死刑にもなりうる罪だった。もはや時代は心の中の夢からも自由を奪ったのだった。
皮肉なことに、窮地のフォン・ブラウンを最終的に救ったのはヒトラーだった。ヒトラーはV-2に形勢逆転の最後の望みを託していた。フォン・ブラウンは必要な人材だった。ヒトラーの鶴の一声でフォン・ブラウンは釈放された。
ヒトラーの大いなる期待を背負ったV-2はしかし、人類最大の悲劇に悲劇を上塗りしただけだけで、崩れゆくドイツの運命を変えることには少しも役に立たなかった。 V-2が初のロンドン攻撃を成功させた頃にはすでに、米英軍はノルマンディー上陸作戦を成功させて西からドイツに迫っており、東からはソ連軍がベルリンに向けて軍を進めていた。
フォン・ブラウンには、夢を祖国とともに心中させる気は微塵もなかった。そしてドイツになだれ込んでくる勝利者たちがV-2の技術を喉から手が出るほど欲しがるだろうことを、彼はしたたかに知っていた。
1945年が明けた頃、彼は信頼できる部下数人を農場の小屋に集めて秘密のミーミティングを開いた。彼は言った。
「ドイツは戦争に負ける。だが忘れてはいけない、世界で初めて宇宙に手が届いたのが私たちであったことを。私たちは宇宙旅行の夢を信じることを決してやめなかった。どの占領国も私たちの知識を欲しがるだろう。問題は、どの国に私たちの遺産を託すか、だ。」
選択肢は4つあった。ソ連、イギリス、フランス、そしてアメリカ。宇宙への夢を叶えるためには、どの国へ行くのが一番良いのか?
フォン・ブラウンはナチスでの経験を通して、夢を叶えるために二つの条件が要ることを知っていた。自由と、金だ。その両方を持つ国はひとつしかなかった。
アメリカだった。
夢の逃避行
ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺した翌日の1945年5月2日の朝。フォン・ブラウンたちが避難していたアルプス山中のスキー場のホテルから、弟のマグナス・フォン・ブラウンが、自転車に乗って山道を南に向かった。そこにアメリカ軍がいるという情報を手にしたからだった。北西からはフランス軍が迫っていた。フランス軍に捕まる前にアメリカ軍に接触するには、こちらから行動を起こすしかなかった。
気を揉んで待つこと数時間。マグナスはアメリカ軍の通行許可証を手に、心配する仲間が待つホテルへ自転車をこいで帰ってきた。喜ぶのもつかの間、フォン・ブラウンを含む7人の技術者たちが、車に分乗して南へ向かった。その中には、ハルツ山地の鉱山に隠した14 トンにもおよぶV-2の技術資料のありかを知っていた2人の技術者も含まれていた。
フォン・ブラウンは戦犯になってもおかしくない立場なのに、アメリカ軍は彼らをスクランブル・エッグ、白いパンと、ドイツでは手に入らなくなっていたコーヒーで温かくもてなした。フォン・ブラウンは驚かなかった。彼はこう回想している。「私たちはV-2を持っていた。彼らは持っていなかった。彼らがV-2について知りたいと思うのは当然だろう。」
アメリカ軍に投降した時のフォン・ブラウン。この数ヶ月前の交通事故で骨折したため、腕にギブスをしている。
フォン・ブラウンは得意のセールスマン・シップを発揮し、ロケットの可能性をアメリカ軍に売り込んだ。来るべきソ連との戦争においてロケットは強力な武器になるだろうこと。V-2は発展途上にすぎず、大西洋をたった40分で飛び越えて乗客や爆弾を運ぶロケットを作ることができること。多段ロケットを使えば地球周回軌道に宇宙船を乗せられること。宇宙ステーションを建設して物理や天文学の研究をできること。そして未来には月や他の惑星にさえも行けること…。
あるアメリカ兵は呆れて言った。
「もし俺たちが捕まえたのがドイツでもっとも高名な科学者でなければ、こいつはとんでもない大ほら吹きだ!」
ともあれ、アメリカ人はこの大口を叩く男を気に入ったようである。多くの兵士たちがフォン・ブラウンと記念写真を撮りたがった。彼は気前よくそれに応じ、得意のスマイルをカメラに向けた。
かくして、フォン・ブラウンはV-2の技術を身代金に、命の保証とアメリカへの切符を手に入れた。アメリカ軍は彼らの証言をもとに、鉱山に隠されていた14トンの技術資料と、地下工場に置き去りにされていた大量のV-2の部品を手に入れた。そしてフォン・ブラウン以下124人の技術者たちは、宇宙への夢とともに、大西洋を渡りアメリカへと向かったのだった…。
(つづく)
=参考文献=
- Michael J. Neufeld, Von Braun: Dreamer of Space, Engineer of War, Vintage Books, 2008.
- Jonathan Allday, Apollo in Perspective: Spaceflight Then and Now, Institute of Physics Publishing, 2000
コラム『一千億分の八』が加筆修正され、書籍になりました!!
『一千億分の八』読者のためのFacebookグループ・『宇宙船ピークオッド』
宇宙兄弟HPで連載中のコラム『一千億分の八』の読者のためのFacebookグループ『宇宙船ピークオッド』ができました!
小野さん手書きの図解原画や未公開の原稿・コラム制作秘話など、ここでのみ得られる情報がいっぱい!コラムを読んでいただいた方ならどなたでも参加可能です^^登録はこちらから
→https://www.facebook.com/groups/spaceshippequod/
過去の『一千億分の八』を読みたい方はこちらから
【第1回】〈一千億分の八〉はじめに
【第2回】〈一千億分の八〉ガンジス川から太陽系の果てへ
【第3回】〈一千億分の八〉地球をサッカーボールの大きさに縮めると、太陽系の果てはどこにある?
【第4回】〈一千億分の八〉すべてはSFから始まった〜「ロケットの父」が愛読したSF小説とは?
【第5回】〈一千億分の八〉なぜロケットは飛ぶのか?〜宇宙工学最初のブレイクスルーとは
【第6回】〈一千億分の八〉なぜロケットは巨大なのか?ロケット方程式に隠された美しい秘密
【第7回】〈一千億分の八〉フォン・ブラウン〜悪魔の力を借りて夢を叶えた技術者
【第8回】〈一千億分の八〉ロケットはなぜまっすぐ飛ぶのか?V-2のブレイクスルー、誘導制御システムの仕組み
【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」
【第10回】〈一千億分の八〉宇宙行き切符はどこまで安くなるか?〜2101年宇宙の旅
【第11回】〈一千億分の八〉月軌道ランデブー:無名技術者が編み出した「月への行き方」
【第12回】〈一千億分の八〉アポロを月に導いた数式
【第13回】〈一千億分の八〉アポロ11号の危機を救った女性プログラマー、マーガレット・ハミルトン
【第14回】〈一千億分の八〉月探査全史〜神話から月面都市まで
【第15回】〈一千億分の八〉人類の火星観を覆したのは一枚の「ぬり絵」だった
【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
〈著者プロフィール〉
小野 雅裕
大阪生まれ、東京育ち。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。2012年マサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科博士課程および同技術政策プログラム修士課程終了。慶應義塾大学理工学部助教を経て、現在NASAジェット推進所に研究者として勤務。
2014年に、MIT留学からNASA JPL転職までの経験を綴った著書『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』を刊行。