私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー

私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー

ALS(筋萎縮性側索硬化症) の患者である酒井ひとみさんの、日常と病気との向き合う様子が綴られたエッセイ

私がママだ!!【第六回】私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー

私がママだ!!【第六回】私の名前は酒井ひとみですーALSと生きるー
ALSかもしれない…ほぼ確定診断と言える報告をドクターから受けた酒井さん。その事実は、直ぐに受け入れられるものではありませんでした。”死ぬための準備”を淡々と始めると共に、生活拠点を実家から自宅へ移します。そして、自宅で起きた”ある出来事”がきっかけで、彼女の考え方がガラッと変化し…。『私の名前は酒井ひとみです—ALSと生きる—』第六回です。

ALSだと100%決まったわけではなかった。それ以外の可能性に私も家族も、すがりたい気持ちがあった。しかし、ほぼ確定診断といえるものを受けたわけで、これからのことを考えないといけなかった。すぐに色々と決断できるはずもなく、まずは退院をして、自宅ではなく、しばらく実家で生活をすることにした。

歯科医院での仕事は、主人に事情を話しに行ってもらい、すぐに辞めさせてもらった。医院長にも、担当していた患者さんにも、あいさつをせずに辞めてしまった。

当時の私は、もう医院長たちには2度と会わないだろうと思っていた。好きなところへ自由に行き、オシャレにも気を遣い、色々な人に会う、今の自分を当時の自分は、一切、想像できていなかった。今は、医院長と従業員という垣根がなくて、昔よりも楽しく話せるのではないかと思うくらいだ。

ALSと診断され、私は絶望していた。死にたくないと思っていたが、死なないために何かをしようとまでは思えていなかった。

主人には、「この先どうするか、ゆっくり考えるといいよ」と言われていた。それで、私がしたことは、死ぬための準備をゆっくりとすることだった。意識的ではなかったが、今、振り返ると、私がしていたことは死ぬための準備だと分かる。

娘の卒業式と入学式以外は、5月に入るくらいまでの3か月間母と過ごした。母が仕事にいき、私は実家で掃除をしたり、手打ちうどんを作ってみたり、大好きだったベーグルを一から作ってみたり、と自由に生活をしていた。また、子供に戻ったような生活だった。母に教えてもらって、かぎ針を使って家族全員分のマフラーを編んだ。

私は、私がいなくなった世界を、想像しながら毎日を過ごしていた。このマフラーを見て、家族には私のことを思い出してほしいと。私が、このまま呼吸器をつけて生き続けても、家族に迷惑をかけるだけだとしか思えなかった。何とかして、自分は死ぬのだという事実を、受け入れようともがいていた。時間をかけてマフラーを編みながら、ひと針ひと針、死ぬことを自分に言い聞かせているようなものだった。

でも、ちょっとしたことで私のその努力は、簡単に崩壊してしまう。

主人の叔母から紹介してもらった大学病院の教授に診察してもらいにいった。そうしたら、ALSと診断されたけど、結局は違う病気だった人の話を聞かされた。もしかしたら、私も同じでALSではない可能性があると、期待を持ちだした。

その教授は、私の気持ちをわかってくれているかのような発言をしてくれた。それで、この大学病院に検査入院をすることにした。

ここの雰囲気は、私にとてもあっていた。何よりも、その時に入院していた仲間たちの雰囲気がよかった。

前回の入院先は、みんながカーテンを閉め切り、会話はほぼなかった。

病棟のナースもみんな友達のように接してくれて本当に入院しているのを忘れるくらい楽しく過ごすことができた。

そして1か月後、「今の段階で、ALSと断定はできない」と言われた。ALSではないかもしれない。にわかに希望の光が射してきて、死を覚悟していた気持ちも揺らいでいった。

検査入院後、すぐに実家に帰り、母と過ごしたのだが、そこには長居をせずに、自宅に帰った。

なぜ、自宅に帰ったのか。今まで、この話を周囲にしたことが実はない。今回、初めてだ。

主人に強烈に嫉妬したのだ。

その出来事は、夜みんなで、川の字になって寝ている時に起きた。

 

娘は3歳のころから花粉症で、この時期(4月頃だと思う)よく夜中には鼻血がでたのだが、その夜も例外ではなかった。しかし、例外が一つだけあった。去年なら、「ママ~」と泣いていた娘から「パパ~」という泣き声が聞こえてきたのだ。

その声を聞きながら、私ははっとした。

この3か月間、何をしてきたのだろう?

自分は、患者である前に、母親じゃないか!

私がママだ!

子供にとっての一番は、ママ。つまり私でありたいと強烈に思った。今、冷静に振り返ると、パパの役目とママの役目は比べられるものではないとわかるが、その時は強烈な嫉妬が涌き上がった。

ALSでないかもしれないという先生の言葉が、生きる希望を私にもたらした。

そして、当時の私を現実に戻してくれた娘に感謝している。

私は、娘でもあるが、母親であり、母親として時間を過ごそうと決めた。

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当時の酒井さんと、酒井さんのご家族

そして、私は、茨城の自宅にに帰ったのだ。その頃から、娘の同級生のママ友や隣りに住んでいた、同じ学校に通う子供がいる奥さんと仲良くなり、バーベキューをしたりクリスマス会を家族ぐるみでしたりして、急速に仲を深めていった。

それと同時に、私の心に変化が生まれていた。「やっぱり、ずっと生きていたい」という気持ちをあきらめられなくなっていた。

いつか、動けなくなり、しゃべれなくなるならば、今のうちにたくさんおしゃべりをしておこうとも思った。

ちょっとずつ動かなくなる体の代わりに、私のおしゃべりは増えていった。

私はママだ!この気持ちがきっかけになり、私は生への執着を取り戻していった。

(つづく)


次回は11月2日更新予定。
自宅で家族と接することで、「やっぱり、ずっと生きていたい」と、生きることへの執着を取り戻した酒井さん。入院先の仲間とともに、辛くとも明るい日々を過ごすことになります。しかし、身近な人の発症がきっかけで、生について真剣に向き合うことになった酒井さんに、ドクターが“確定診断”を下します。

<著者プロフィール>
酒井ひとみ
東京都出身。2007年6月頃にALSを発症。”ALSはきっといつか治る病気だ”という強い意志をもちながら、ALSの理解を深める為の啓蒙活動に取り組んでいる。仕事や子育てをしながら、夫と2人の子供と楽しく生活している。

第五回はこちらから
▶ https://koyamachuya.com/column/backstage/als/13690/