気管切開の手術を目前に控え、私の頭の中は常にそのことだけになっていた。
手術をすると、声も出せなくなる。コミュニケーションはすべて、「伝の心」という機械に頼ることになる。果たして、それで夫婦、親子関係は、これまで通り維持できるのだろうか? 気管切開までして、生き続けることに本当に意味があるのだろうか? 一度は納得したはずの問いが、結局はグルグルと回りだす。
私と夫にとって、大きなターニングポイントとなったのは、日本ALS協会の会長O氏との出会いだった。
手術前だったので、O氏と会話は、必然的に気管切開と胃ろうの話題になった。O氏からはこんなアドバイスをもらった。「気管切開はそこまで痛くないけど、胃ろうは痛いよ。でも3日我慢すれば、嘘のようにすっと、痛みはとれるから、がんばってね」
O氏の病状は、私よりも進行している。もちろん気管切開も胃ろうの手術もすんでいる。だから、O氏が直接、話したわけではない。O氏は話すことができない。しかし、私の記憶の中ではO氏が話をしている。
O氏が伝えたいことを、ヘルパーさんが代わりに発した。それでも、不思議とO氏が話しているような錯角に陥るのだ。話している最中にもそのような気持ちになり、O氏と話したとして、記憶される。
O氏のコミュニケーション方法は、「伝の心」ではなく、口文字だった。
口文字は人によって、やり方が違う。まず大きな違いは、最初に読み始めるのが、ひらがな表の縦か横かだ。この縦か横かというのは、例えば、「り」を選択したい場合「あ、か、さ、た、な…」と先に横を読んでもらい、「ら」が来たときに瞬きやその人がわかりやすい合図を出して、そこから、読み手がら行の「ら、り、る…」と縦で読んでいき、「り」のところでまた合図を出して、文字を特定する。私の場合は、最初に、母音の口の形を口で造り、そこから、「あいうえお」を読み手が読み取り、「り」を読みたいときは、「い」母音なのでい行の段を読んでもらう。「いきしちにひみ(い)り(い)」という具合にだ。
普通に生活していて、「い、き、し、ち、に…」と読める人はそうはいない。「あ」の段を読むことしかないはずだ。私と会話をしたい、そう思って、夫、子供たち、母親と、私の周りにいる人はみんな、ひらがな表を暗記してくれた。それのおかげで、気管切開の一番の心配だったコミュニケーションの問題は、ほとんど問題にならなかった。
今は、視線入力でという素晴らしい技術が開発されて、ひらがな表に頼る機会は減ってしまった。コミュニケーション自体はうまくいくのだが、ひらがな表を使わないのは、ちょっと残念で寂しくもある。
口文字を使っていた頃の、大好きなエピソードがある。私と話そうと思うと、口文字を読まなくてはいけない。子供たちは、私に叱られる場合も、自分で口文字を読んで、一字一字把握していく必要がある。端からみると、自ら怒られている変な子だ。母親が私と喧嘩する場合も同じだ。喧嘩のやりとりを、じっくりと私の口文字を読みながらしないといけないのだ。子供たちも母も、いつも途中で馬鹿らしくなって諦めてしまうから、コミュニケーションが、普通に話すよりもスムーズにいっていたかもしれない(笑)。
最近は、視線入力によって、口文字を使っていた時よりもはるかに早く、そして長く言葉が伝えられるようになった。この文章も、視線入力で書いている。みんなは、話が長くなるとわかると、パソコンを持ってきて、「これで話して!」と前に置く。便利なのだけど、少し寂しさも感じる。
この視線入力装置も口文字もどちらも一長一短だ。前者は、疲れずに長い文を相手に伝えることが出来る。口文字は、介助してくれる人、または話し相手と目を合わせて話さなくてはならないところが、逆にとても良い。そして電気など何もなくてもすぐにその場で始めることが出来るのも魅力的だ。震災などが起きるとき、私達のような立場のものの生死は、口文字ができる人がいるかどうかで決まってしまうだろう。
気管切開の手術は、全身麻酔だと思っていたら、まさかの局所麻酔だった。当日は怖すぎて、痛み止めの点滴で眠くなるまで、まだ若干動くことできていた左手がずっと震えていた。
色々細かいことはあったが、基本的に手術は無事終った。病院のスタッフは「療養環境が整うまでは病院にいたほうがいい」と私を引き留めてくれた。私のことを思ってくれた意見だったが、次の月には息子と約束した誕生日プレゼントの一緒に出掛けるという大切なミッションがあった。なので、どうしても早く帰らなければいけなかった。私は一生懸命説明した。そして、私のわがままで家に帰ることができた。
帰り道、高校のころから放課後に友達とよく遊んだ景色をみた。それは、すごくクリアだった。気管切開前は、いつも呼吸を補助するために、鼻マスクが存在していて、それごしに街を見ていた。気管切開をして、鼻マスクがとれて、見える景色はクリアだった。なんだかそのことに泣けてきてしまった。
気管切開は、私の人生を暗く変えてしまうことになるかもしれない…そんな風に考えていた時期もあった。しかし、口文字を知り、今までとほとんど変わらない、もしかしたらそれ以上のコミュニケーションを取れるようになり、私の人生は幸せなものになった。こんなに幸せな生活を送れるようにしてくれた周りのヘルパーさんや、家族、先輩患者さんたちにたくさんたくさんの「ありがとう」を伝えたい。
(つづく)
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<著者プロフィール>
酒井ひとみ
東京都出身。2007年6月頃にALSを発症。”ALSはきっといつか治る病気だ”という強い意志をもちながら、ALSの理解を深める為の啓蒙活動に取り組んでいる。仕事や子育てをしながら、夫と2人の子供と楽しく生活している。
これまでの回を読む
第一回: 私の名前は酒井ひとみです ーALSと生きるー
第二回: ALS発症と、最初の受診
第三回: せめて病名さえはっきりすれば…
第四回: 思うように動かない体…私は何の病気なの?
第五回: 突然の宣告と初めての涙
第六回: 私がママだ!!
第七回: ぬぐえない涙
第八回: 二つの決心
第九回:孤独との闘い