その決断に至るまでの6ヶ月の間にも、ALSの影は着実に忍び寄り、日常生活でも危険が感じられるように。
見た目は普通だからこそ周りに相談も出来ず、だんだんと動かなくなる体と不安を一人で抱えながら、何とか自分で”病名”という答えを見つけようとします。
“日常で出来たことが、普通だったことが、だんだんと出来なくなる。”…その時の心情を語る、第五回『私の名前は酒井ひとみですーALSと生きる』です。
私が東京の大学病院に行くようになるまでの6か月の間、私の症状は見た目では特に変わらなかった。でも、少しずつでも確実にALSという病は私の体を蝕んでいた。
日常生活をする時にも、危険を感じる場面が増えてきていた。
例えば、車を運転する時。運転するには支障はなかったが、私の車は右ハンドルだったため、どうしても、左足から乗らなくてはならなかった。しかし、乗るときに足が上がりきらないことが多くなり、気づいた時には、自然に両手で足を持ち上げて車に乗り込んでいた。そして、12月の終わりころには、右足も手で持ち上げていた。そんな状態でも支障なく運転できていたことは、本当に奇跡的だった。
職場でも危険と隣り合わせだった。私の勤めていた歯科医院は体が不自由な方が多かったので、待ち合い室から診察台までの間を手を引いたりして、転ばぬように案内する場面があった。私は、従業員が極端に少ない土曜日を任されていたため、その役をどうしても免れるわけにもいかず、患者さんを案内していた。しかし、日に日に上がりづらくなる足では案内も大変で、忙しすぎると突然足の力が抜け、転んでしまうこともあった。体が不自由な患者さんを案内するにはリスクが高かった。その当時も、いつか、患者さんにけがをさせてしまうのではないかというのが、気がかりでしょうがなかった。
そして家でも。仕事が終わり、家で夕飯を作ろうと中華鍋を熱して野菜を炒めていた時の事だ。いつもと同じ作業のはずなのに、急に足の力が抜け、真後ろにひっくり返って転んだ。左手に持っていた中華鍋は、ヤバいと思った瞬間に手を放していたので、軽く頭を床に打つ程度で済んだ。
日常で出来たことが、普通だったことが、だんだんと出来なくなる。私が私ではなくなっていく感じがして怖かった。無理矢理何かを奪われていく感覚だった。もちろん、周りに対しても、私が迷惑をかけてしまうのでは?と、毎日気が気じゃなかった。もし、仕事中に患者さんの手を引いている時に転んでしまっていたら、もしそばに子供たちがいるときに鍋ごとひっくり返したら、と考えると今でもぞっとする。
毎日そんな不安を抱えながら生活していたが、でも、その頃の私の見た目は、普通の人と変わらなかった。
当時の酒井さんと、酒井さんの妹さん
もちろん、エアロビに一緒に通っていた同僚や、その他一部の同僚以外に信じてもらえるわけもなく、ただただ、慎重に仕事をこなす以外の方法はなかった。これが病気なのかすら分からなかったから、普通に生活をしなければならなかった。それは、“普通の時の自分”に、周りに、必死にしがみついているような気持ちだった。私が抱えている気持ちなんて誰も分かってくれないと心の底では思っていたし、「体のどこかがおかしい」と周りに言ってはいけないとも思っていた。ばれてしまうのが怖かったからだ。“普通”でなくなるのが怖かった。だからこそ、ばれないうちに、まだかろうじて日常生活を過ごせている今のうちに、早くこの病気が何なのか知りたいと思っていた。
だから、家庭の医学書を買い、それぞれで調べてみたりしていた。しかし、自分の症状をどのように調べていいのか全く見当がつかなかったので、どの病気に当てはまるのか、そして、本当に自分は何の病気なのだろう?と毎日考えていた。
また、症状が分からないのでドクターに説明すればよいのか、困っていた。
私は、症状がでる前の1年位前に友人に「足が痺れて痛い」と話していたと指摘されていたこと、それから左足に何とも言えない痛みが走っていたことを思い出し、それをしきりにドクターに訴えたり、家庭の医学書で調べてみたりしていた。
しかし、どれほど切実にドクターに訴えても、自分が抱えている辛さどころか、絶対におかしいと思える身体症状すら、理解してくれなかった。もどかしかった。自分で探してやる!と、家庭の医学書で調べても、答えになるようなことは何も見つけられなかった。
世の中には、病気になりたくない!と思う人がほとんどだし、病気になった時に病名を告げられると絶望を感じる人の方が多いのに、私はそれでも病名を知りたかった。だんだんと普通ではなくなっていく今の方が怖くて、辛かったからだ。病名が明らかになったらショックを受けるだろうと分かっていても、それでも何にもすがることが出来ない今よりはマシだと思っていた。
何の病気なのかが分からないモヤモヤとした気持ちをかかえている中で、やっと気持ちをわかってくれるドクターに出逢えた。1回目の確定診断をしてくれた、東京のある大学病院のドクターだ。内心ほっとした。そこのドクターは、私の今までの症状や前の病院からの紹介状を読み、いろいろなところを丁寧に診てくれた。それだけでも、他のドクターと違って、不信感は拭われて少しだけ安心したのを覚えている。
そのドクターに「おそらく、神経内科の病気なのは、間違いないでしょう。可能性のあるものを見つけ出すために、1つずつ消去法で消していかなければいけないので、検査入院してもらいます。ただ、すぐに入院できる部屋がないから、それまで出来る検査を進めて行きたいと思います」と、はっきりと言われたのだった。
何にもすがらないで、ただただこの状態を自分が受け入れていくしかないと思っていた私にとって、少しだけ希望が見えたような気がした。
でも、まだこの時も、病名を知りたい!という気持ちの方が強く、その病気が何であっても受け入れることが出来るのか、私自身、全く分かっていなかった。
(第5回へつづく)
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<著者プロフィール>
酒井ひとみ
東京都出身。2007年6月頃にALSを発症。”ALSはきっといつか治る病気だ”という強い意志をもちながら、ALSの理解を深める為の啓蒙活動に取り組んでいる。仕事や子育てをしながら、夫と2人の子供と楽しく生活している。