第4回 人間についての対話 | 『宇宙兄弟』公式サイト

第4回 人間についての対話

2020.09.21
text by:編集部コルク
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無重量環境の国際宇宙ステーションに滞在中、私は様々な身体の状態の変化を経験しました。

ヒトは地上では身体の位置や動きを、三種類の感覚器官の情報によって判断しています。目からの情報、耳の奥のほうにある前庭や三半規管で感じる情報、筋肉や腱などにある深部感覚という筋肉の張り方や圧迫などの情報の三つです。

地上では、目からの情報以外の前庭器官と深部感覚の情報は重力があって初めて正確なものとなるのですが、宇宙では見かけの重力がないため脳の中は混乱し、これが宇宙酔いの原因として最も有力視されているものです。

地上では重力で体液が身体の下のほうに向かって引っ張られていますが、国際宇宙ステーションでは無重量状態のため、地上とは異なって体液が上半身にシフトすることで顔がむくんでしまう「ムーンフェイス」になったりします。

顔がむくむムーンフェイスの状態は、逆立ちした時に顔に血が上る感じに似ています。国際宇宙ステーションでは体液シフトのために足が細くなったり、また、無重量環境のために椎間板(ついかんばん)の抑えがとれて、身長が数センチ伸びたりすることもあります。

国際宇宙ステーション上では、重力の負荷がないため、地上では日常使っている歩行等に必要な筋力が運動をしなければ衰えます。

普段の地上の重力下の生活では、破骨(はこつ)細胞による骨の破壊(骨吸収)と骨芽(こつが)が細胞による骨の形成が繰り返され、常に新しく骨が作り替えられていますが、宇宙ではこのバランスが崩れて骨吸収が進み、骨密度が低くなるとともに構造が変化し、骨強度が低下しもろくなります。

結果的に骨量が減少して尿からカルシウムが排出されます。筋萎縮や骨密度の低下を抑えるために、1日約2時間の体力トレーニングが毎日の宇宙でのスケジュールに組み込まれています。

地上の日常生活での放射線被ばく線量は、1年間で約2・4ミリシーベルト程度です。国際宇宙ステーション滞在中の被ばく線量は、1日あたり0・5〜1ミリシーベルト程度となり、地上での約半年分に相当します。

ですから、放射線被ばくを適切に管理するために、国際宇宙ステーション滞在中の宇宙飛行士は放射線被ばく量を測定する線量計を携帯しています。

このように地上からわずか400キロメートル上空でしかない地球低軌道の宇宙空間でさえ、人間の身体には様々な影響を及ぼし、健康を維持するための対応が必要となってきます。

今後、人類が国際宇宙ステーションのある地球低軌道から月、火星へとその活動領域を拡げ、我々の故郷の地球とは異なる環境の下で長期間生活をするような時代を迎えた時、人類はその肉体と精神を、その環境に順応させていかなくてはなりません。

さらに言えば、たとえば他の惑星に移住するとしたら、そこは地球とまったく同じ環境ではないはずです。その星で生まれた人類は、その星の環境に適応した身体的な発育を遂げることになるでしょう。その時、彼らはある意味、純粋な地球人ではなく、地球由来の新人類とも言えます。

人間が宇宙へ進出するということは、自らを宇宙の新たな環境に適応できる生命体へと変化させていくことに他なりません。

肉体的な障害を持った生活がどれほどの苦労を要するものか、私は推し量ることしかできません。ただその身をもって、この言葉通りの生き方を示してきたホーキング博士だからこそ言える、説得力のある言葉です。

また、何かの理由でうまくいかないことがあっても、「上手くできることに集中する」というのは、どんな人にも通じる前向きな生き方だと思います。

「上手くできることに集中する」というホーキング博士のおっしゃっていることは、閉鎖環境の国際宇宙ステーションの中で半年間滞在した時にも、心がけたことでした。家族や友人と一緒に時間を過ごしたり、大好きな寿司や野菜サラダを食べたり、そよ風の中で野球をしたり、そんな普段の生活でしていることが半年間もできないという制約が宇宙での生活では余儀なくされます。

その中で、宇宙での実験等の成果を最大化することに注力すると同時に、心身の健康を維持し、長丁場の宇宙滞在を乗り切るために、今宇宙で自分ができること、電話やビデオ・チャットで家族や友人、同僚とのコミュニケーションを絶やさず、運動することで心理的にもリラックスし、決して無理せず睡眠を十分にとり、週末は休むといった、宇宙での「今できること」をしっかりやることに集中しました。

このような経験は新型コロナの影響で、家で過ごす時間が増えている時にも役立っていると思います。自宅にいても、普段の生活からリズムが変わらないように、毎日、日課を決め、自分のすべきことのスケジュールをしっかり立てて過ごし、家族や友人、そして職場の同僚と物理的に会えなくても、オンラインで密なコミュニケーションを維持することで、なんとか乗り切っています。

今できないことを考えるのではなく、今しかできないことを楽しむ。行動で迷ったら、「今、なぜこのことに取り組んでいるのか」という根本の理由に立ち返って、今、自分がやるべきことが何かを、もう一度考えることで気持ちが楽になると感じます。

会議などの意見交換の場に出席する時、私は自分の考えの要点やキーワードをロジックとともに一度書き出してみるということをよくやります。

そうすることで、頭の中でぼんやりとあったアイデアが話のつじつまや表現方法も含めて、より論理的にきちんとした形になってアウトプットできるメリットがあります。

また、ある程度、自分の考えが固まった時点で、その考えを文章にしています。「あれ? こんなことを自分で考えていたかな?」と、自分の考えが思っていたより意外とまとまっていなかったり、論理的に破綻していたりなど、漏れや穴に気づくこともあるからです。

脳内の考えを文章という形で視覚化することは、あらためて自分の考えを整理して見直すことにもなります。頭の中を整理するための時間の確保が難しい場合も多いですが、意見交換の前にその過程を踏むことで、相手に自分のロジックをよりわかりやすく伝えることができます。

意見交換の場は、会議や立ち話程度の雑談など、様々なケースがあります。その目的も結論を出すために意見をぶつけ合ったり、落しどころを調整したりする場合もあれば、突破口を探るために新しいアイデアを出し合う場合もあります。

ただ、どんな場面であれ、お互いの考えをキャッチボールし合うことで、自分では考えもつかなかったような視点や発想を発見できることがあります。それこそが意見交換の最大のメリットかもしれません。

その意味で、異業種や異文化といった異なる立場から意見を述べ合うことで、効率的に新しい知見に触れることができ、結果としてイノベーションを生み出し、新たな成果の創出にもつながりやすいのではないでしょうか。

私は宇宙開発の仕事をしていますが、宇宙関連分野の専門性の高い方々だけで話していると、思いもつかなかったような斬新なアイデアに出会う場合が限られていると感じることもあり、ある程度の予想されるレベルまでしか話が行き着かないことがあります。

でも、そこに宇宙とは異なる分野の業種の方々、たとえばエンターテインメント業界の方が加わって、これからの宇宙環境利用について意見交換をする時、我々とはまったく異なる視点からのアイデアが出てきて、画期的で新しい宇宙利用の具体的な事業構想が生まれる可能性は高くなります。実際に、すでにいくつかの宇宙環境利用に関する事業が進められている状況がそのことを物語っています。

異業種糾合(きゅうごう)によるイノベーションは、今後様々な分野で拡大していくでしょう。同業種同士のグループ、言わば同じ村のコミュニティの中にいると快適で心地良いのですが、新しい発想という点に関しては、殻を破れないところがあるからです。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)は国立研究開発法人で、ロケットや人工衛星、宇宙船、航空機など、宇宙航空分野の基礎研究から開発や利用まで、一貫して行っている機関です。2019年10月には日本政府が、米国が主導する月等の国際宇宙探査に参画することを決定しました。

今後、月周回拠点や月面に宇宙飛行士や宇宙機を送り込んで、探査活動を持続的に進めていくためには、月面を移動する車両やさらには月面基地の建設等も必要になってきます。

JAXAはロケットや人工衛星の開発では多くの実績がありますが、たとえば月面で人間が乗る車両(有人与圧ローバー)の開発経験はありません。そのため、すでに高い安全性と信頼性を誇る日本の自動車産業界の技術が重要になってきます。

月では、地球の約6分の1の重力があるので、基本的には地球上と同じように重力下で動く機器や道具が使えます。あとはどれだけ軽量かつコンパクトで、温度や放射線等、月の厳しい環境に対して耐久性を持った乗り物を作れるかが課題なのです。月面有人与圧ローバーは我々がこれまで宇宙とは異分野であった産業界とも共同研究を進めている、その一つの例です。

JAXAは「宇宙探査イノベーションハブ」という取り組みを通して、中小ベンチャーも含む多くの非宇宙分野の企業等と共同研究を行い、宇宙だけでなく、地上の事業化にも資する新たな技術開発の取り組みを進めてきています。

そして、この取り組みで重要なのは、宇宙探査に向けた技術の共同研究で得られた成果が、地上市場での製品化等、そのまま地球上での産業にも活用できることです。

これはホーキング博士が薦める「他人との意見交換」の話とも関連する、具体的な取り組みだと思います。つまり、バックグラウンドが異なる者同士の交流(コラボレーション)は、自分の立ち位置や考えを整理することにもなるし、またその結果が1+1=2ではなく、3や4という出口の広い成果を生み出すことにつながるわけです。

ホーキング博士が脳内で思考を巡らせてきた宇宙に、私は肉体で飛び出して行ったわけですが、地球の大気圏を抜けて宇宙に身を置いた時、目の前には広大無限の宇宙が広がっていました。

自分が今いるさらにその先に果てしなく広がる暗黒の宇宙空間は、様々な観測を通して、疑問を解き明かせば解き明かすほど、突き詰めれば突き詰めるほど、さらに新しい疑問が生まれてくる無限の世界です。まさに、それを追究し続けたのが、ホーキング博士だったのだと思います。

心や思考は、どこまでも自由自在に探究できる。それが人間という生命体に与えられた特権ではないでしょうか。一方、肉体的な部分は限界があり、我々は羽ばたいて空を飛びたくても当然飛べないわけです。でも、心や思考から生み出したテクノロジーを活用することで、宇宙に飛び出す文明をも築き上げました。

人類は肉体的な限界を超え、より遠い世界を探究できるようになったわけです。我々にはどんな肉体的な制約があろうとも、心や思考が自由である限り、人間に限界はないとホーキング博士は言っているのだと思います。


※この連載記事は若田光一著『宇宙飛行士、「ホーキング博士の宇宙」を旅する』からの抜粋です。完全版は、ぜひこちらからお買い物求めいただけると幸いです。