人類が地球を出て、本格的に他の星への移住を実行する時、最も有力な候補となる惑星は火星です。
すでに、欧州宇宙機関(ESA)の火星探査機「マーズ・エクスプレス」によって、火星の南極の地下約1・5キロメートルの深さに幅約20キロメートルの湖、つまりまとまった液体の水があるらしいことがわかっています。
低温で液体の状態を保っているようなので、水には大量の塩分が含まれている可能性が高いとも見られています。実際に、その液体の水の存在が確認できれば、テラフォーミング(惑星の環境を地球上の生物が生存可能な環境に変化させる仮想的な方法)などの技術の発達に伴い、火星の開発を進め、人類の移住を進めていくことも可能になるかもしれません。
また、今のテクノロジーでは太陽系外の惑星に到達するのさえ難しいのですが、ケプラー宇宙望遠鏡の観測等によって、太陽系外でも存在が確認されているハビタブルゾーンにおいて、人類の移住に適した環境の惑星の存在が次々に発見されてきています。
このようなハビタブルゾーンにある天体については、今後さらに発見が続いていくでしょう。そう考えると、ホーキング博士が言う「人類が生きていくのに適した惑星」を見つけることは、意外と早いかもしれません。
問題は、その惑星に到達することです。我々が持つ今の推進システムの技術では、火星に到達するだけでも半年以上かかります。
現在知られている最も地球に近い太陽系外惑星プロキシマ・ケンタウリbは、その主星プロキシマ・ケンタウリのハビタブルゾーン内を公転していますが、地球から約4・2光年の彼方にあるので、そこに行ってみるのは現時点では困難です。
宇宙開発において、成果を効率的にかつ確実に結実させていくには、計画の立案、要素技術の研究・開発、システム設計、製造、ミッション遂行といった一連の流れを、PDCAサイクルを徹底しつつ進めていくことが必要です。
そのサイクルの中で、長年に渡る技術やノウハウの蓄積は重要な要素です。その積み重ねを、一歩ずつ着実に進めていくことが大切なのはもちろんですが、AIやテクノロジーの急速な進化が、こういった技術やノウハウの進展を加速度的に実現させ、宇宙開発をよりスピーディーに進歩させていく可能性を持っています。
宇宙のフロンティアを切り拓く取り組みでは、ロボット無人機だけで十分ではないか、あるいは有人の宇宙システムで進めるべきだ、という二つの考え方があります。
現在、宇宙活動の現場では、ロボティクスや、自動化・自律化の技術がシステムの中にますます取り込まれてきています。国際宇宙ステーションでは、姿勢制御や、熱制御、環境制御・生命維持といった様々なシステムのほとんどが自動制御や、地上管制局からの遠隔操作で動いており、宇宙飛行士が実際に手動で操作をしなければならないのは、トラブル発生時などの一部に限られています。
国際宇宙ステーションから超小型衛星をすでに250機以上放出した「きぼう」日本実験棟のロボットアームの操作も、ほとんどすべてが茨城県つくば市にある「きぼう」の運用管制室から遠隔操作で行っています。
また、ソユーズ宇宙船の打ち上げ時やドッキング、さらに大気圏突入から着陸までの操縦は自動化されていて、自動化されていない部分でもモスクワの地上管制局からの遠隔操作で行う部分がかなり多くなっています。
つまり、国際宇宙ステーションでの実験などで、自動化が困難な部分や、トラブルが発生した時など、宇宙飛行士のリアルタイムでの判断や手動操作が必要な場合のみに、宇宙飛行士が直接手動で作業を行い、それ以外の作業は自動制御や地上からの遠隔操作によって、より効率的に仕事が進められるよう工夫されているのです。
今後、宇宙活動のシステムにおいても、AIを駆使して自動化・自律化が進んでいけば、さらに複雑な判断をも要する作業が人間なしでもできるようになり、宇宙で行う作業という観点からは、ほとんど人間の出る幕がなくなってくるかもしれません。
その具体例の一つは探査機です。無人小惑星探査機「はやぶさ2」も、開発や運用はもちろん地上のチームの人たちが行いますが、実際に小惑星に降り立ち、探査活動をするのは「はやぶさ2」という無人のロボットです。
つまり、宇宙活動において何かを達成するための手段としては、必ずしもその現場に人間が行く必要がないわけです。すると、今後の宇宙活動はロボットだけで進めていけばいいのでは、という議論も当然起きてきます。
私は、有人宇宙活動の現場で仕事をしています。そこでは、無人システム、あるいは有人システムというものは、宇宙への人類の活動領域を拡大していく取り組みの中で、現在我々が有する技術水準、システム構築のためのコスト等を考慮したうえで決める「手段の選択」に過ぎないと考えています。
人類の宇宙への活動領域の拡大は、人類の“種”としての存続のための危機管理の取り組みであり、そのために、我々は、目まぐるしく速いペースで進歩する技術の変化の中で、常に最もふさわしい「手段の選択」を考えていかなければならないと思います。
たとえば、宇宙探査だけでなく、人工衛星を使った通信やGPSなどの測位、観測衛星を利用した地球環境のモニター、気象衛星による天気予測等、宇宙活動において無人システムの果たす役割は膨大であり、それらが私たちの地球上での日々の暮らしを安全、安心なものとし、宇宙システムにより様々な利便性が向上し、豊かで暮らしやすい世界が実現されています。
そのような中での結論としては、私は宇宙活動においてAIが人間のサポートをすることはあっても、完全に置き換わるという方向に進むとは思っていません。宇宙開発の究極の目的が、「地球人類という種とその文明の存続」という危機管理にあるとしたら、AIではなく生身の人間が宇宙へ進出していく技術や知見を常に考慮して、宇宙開発を進めていく必要があります。
「私たちはすでに火星でローバーを走らせているし、土星の衛星であるタイタンに探査機を着陸させた。だが、もしも人類の未来を考えるなら、私たち自身が行かなければならない」(『ビッグ・クエスチョン 〈人類の難問〉に答えよう』より)とホーキング博士もコメントしていますが、私も同感です。
人間が宇宙に向かう、その営みを止めた瞬間、人類として生き残る未来はいつか絶たれると思っています。もちろん、そのためにはAIをはじめとするテクノロジーをうまく利用する必要があります。
少し話が逸れますが、俳優・ダンサーの森山未來さんと対談でお話しした時、私と似たような問題提起をされていました。彼は、自らの肉体を駆使する踊りによってパフォーマンスしている立場として、これから科学技術が発展していく中、「いったいどこに肉体を取り留めておけるだろうか」ということをよく考えているとおっしゃっていました。ダンサーとして、生身の肉体で表現する意味を問われていると感じていらっしゃるのです。
VR(仮想現実)などの技術により、リアルな世界を仮想現実の世界で再現できるようになりました。そのクオリティは今後も発展し、人間の五感に与える情報量が飛躍的に増え、リアルか仮想か判断できないくらいの水準になるのかもしれません。また、AIの登場により、人間と同じ、またはそれ以上のことをこなす、見た目も人間のようなAIロボットも開発され利用が進むかもしれません。
AIロボットには、卓越したテクニックと表現力を要するダンスを踊らせることも可能でしょう。その時、生身の肉体を使って表現するダンサーの存在価値は、どこにあるのか。そんな漠然とした不安を、森山さんはダンサーとして思案なさっているようでした。
AIロボットのダンスを鑑賞することは物珍しいと思いますが、いくらテクノロジーが発達したとしても、心を揺さぶられる深い感動を与え続けられるかという点に興味を持っています。
ホーキング博士は2007年、65歳の時に、無重量状態を体験できるパラボリックフライト(放物線飛行)に参加されました。私もNASAで宇宙飛行士候補者の時に初めて搭乗して以来、十数回、パラボリックフライトを経験しました。
NASAでは、KC-135やC-9という航空機を使用して、毎回のフライトで30回から多い時には60回程度の〝パラボラ降下〞を行います。
パラボラ降下時に無重量状態を模擬できる時間は、わずか30秒程度です。パラボリックフライトの目的は、無重量環境の体験訓練や、宇宙機のシステムや実験装置の開発試験等で、時には130キロもある船外活動服を着用して、宇宙でスペースシャトルの耐熱タイルを修理する技術の開発試験なども行いました。
パラボリックフライトを行う航空機は、宇宙飛行に向けた訓練やシステム開発には重要な無重量環境のシミュレータなのです。
ホーキング博士が搭乗したパラボリックフライトは、改造されたボーイング727型旅客機によるものでした。高度約1万メートルまで上昇した後、パイロットの手動操縦で高度約2500メートルまで放物運動をするような軌跡で一気に急降下し、その下降中の約30秒の間、機内は無重量状態になります。
この放物飛行を2時間ほど掛けて8回ほど繰り返し、ホーキング博士は延べ約4分間の無重量状態を経験したそうです。飛行後、感想を聞かれて「無重力は素晴らしい体験だった。私は何度も何度もくり返した。宇宙よ、私はついに来たぞ」と博士は喜んでいたそうです。
パラボリックフライトでは嘔吐してしまう人もよくいて、飛行前に酔い止めの薬も飲むのですが、それでも気分が悪くなる人がいます。そうなると決して楽しいだけではありません。
また、ホーキング博士の場合、普段は車椅子の生活で、しかも人工呼吸器を使っている状態なので、パラボリックフライトを行う場合には当然リスクが伴います。ホーキング博士は飛行前に医師から、肺に穴が空いて命に関わる危険もあると忠告されたそうですが、それでもチャレンジしたいと、4人の医師と2人の看護士が同行してのフライトだったそうです。よほど無重量状態というものに対する好奇心があったのだと思います。
だいたい、宇宙の理論の構築に無重量体験は必要ではないでしょう。でも、ホーキング博士の場合、自ら宇宙へ行くことも熱望していましたし、宇宙開発や宇宙飛行士の活動にもとても関心をお持ちで、私が国際宇宙ステーションに滞在中、BBCの番組の企画で、国際宇宙ステーションのクルーの同僚とともに地上のホーキング博士と交信をさせていただいたこともありました。
ホーキング博士の宇宙に行きたいという強い想いに関しては、私は少し意外に思っていました。なぜなら、ホーキング博士は頭の中での思考の世界とはいえ、もう宇宙の大海原を縦横無尽に航海しているような人です。
そもそも広大な宇宙の成り立ちを探究する方々は、その果てしない宇宙のほんの入り口でしかない地球のすぐ回りの空間に行ってみることには、あまり興味をお持ちにはならないのではないかという印象を持っていました。
高次元世界(五次元、六次元など)の存在を理論的に提唱し、素粒子物理学、宇宙論を専門とする理論物理学者のハーバード大学リサ・ランドール教授に、NHKの番組で対談取材をさせていただいたことがあります。お目に掛かった際、教授が宇宙飛行にとくに関心があるようなお話はうかがいませんでした。
ハーバード大学を取材で訪問させていただいた際、どんな感じの研究室で研究に取り組んでいらっしゃるのだろうと、興味津々でランドール教授の研究室にお邪魔しました。研究室の建物の中に入ると、壁一面が大きなホワイトボードになっている場所がいくつもあり、そこで物理学科の学生さんたちが、コーヒーカップを片手に、ホワイトボードにたくさんの計算式を書きながら、活発な議論をしていました。
取材スタッフが私のことを、「ここにいるのは日本の宇宙飛行士だ」と紹介してくれたのですが、さっきまで複雑な数式をにらみながら議論をしていた学生さんの一人に、「宇宙でどうやってトイレに行くのですか?」と真顔で聞かれました。質問の内容が小学生と同じだったので、ホワイトボードの複雑な数式とのギャップがとても印象的でした。
ランドール教授のような理論物理学の専門の方々にとってみたら、宇宙飛行士が活動する宇宙領域と、教授たちが研究対象としている宇宙の領域はそのスケールが大きく異なるでしょう。
宇宙飛行士が活動している場所は、地球の大気層のすぐ上の領域の宇宙空間で、地上からの高度が約400キロメートルの軌道上の国際宇宙ステーションで実験や観測等の有人宇宙活動を行っています。
でも、理論物理学における研究対象となる宇宙の範囲は、我々宇宙飛行士が現在到達することがもちろんできない広範な領域であり、様々な望遠鏡や観測装置を駆使しても観察することすら困難な領域も含まれています。理論物理学者は、未知なる広大な宇宙に潜む謎を、思考と数式を駆使して理論的に解き明かすという膨大な取り組みに日々挑んでいるのです。
そのような中、ホーキング博士は少し変わっていました。ホーキング博士はパラボリックフライトの体験を振り返って、「二〇〇七年のこと、私は無重力飛行をする幸運に恵まれて、重さがない状態をはじめて経験することができた。それはわずか四分間のことだったけれど、実にすばらしい経験だった。行けることなら、どこまでも行きたかった」(『ビッグ・クエスチョン 〈人類の難問〉に答えよう』)と語っています。
とても純粋で率直な感想だと思います。普段、重力にとらわれているこの地上で、しかも車椅子での不便な生活を送っているホーキング博士は、きっと肉体的のみならず、心理的にも重力による拘束から解放された気分になったことでしょう。そして、自分の置かれている環境から隔絶したところに身を置くことで、新たな発見や達成感を感じたことと思います。
またホーキング博士は、この先、何世代にも渡って人類が生き延びていくためには、人類の宇宙への進出が必須条件だと考えていました。博士自身が宇宙飛行に挑戦する姿を見せることで、宇宙開発に対する人々の関心をあらためて呼び起こしたかったのではないかとも思います。
※この連載記事は若田光一著『宇宙飛行士、「ホーキング博士の宇宙」を旅する』からの抜粋です。完全版は、ぜひこちらからお買い物求めいただけると幸いです。