【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」 | 『宇宙兄弟』公式サイト

【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」

2017.01.16
text by:編集部コルク
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ソ連が世界初の人工衛星の打ち上げに成功したとき、その事実は世界中にどれほどの影響を与えたのでしょう?
ミサイル開発に貢献してきた当時のカリスマ技術者といえばフォン・ブラウンでした。しかし、彼が当時いたアメリカは国内でも「冷戦」が存在したせいで、ソ連に先を越される結果に…。また、彼と同じく戦争や政治に翻弄されながらも、夢を追い続けた天才技術者がソ連にもいました。
NASA技術者の小野さんが、世界初の人工衛星打ち上げの背景から、人工衛星のロケットの仕組みまでを分かりやすく解説してくれます!

それはまさに晴天の霹靂だった。

ソ連が世界初の人工衛星の打ち上げに成功した-

そのニュースがフォン・ブラウンのもとに飛び込んできた1957年10月4日、彼が勤めるアメリカ陸軍弾道ミサイル局にはちょうど、新国防省長官のニール・マッケルロイが視察に訪れていた。怒り狂ったフォン・ブラウンは夕食の席で新長官にこうまくし立てた。

「 私たちは2年前にやれたんだ!どうか頼むからやらせてくれ!ロケットは倉庫で眠ってるんだ!マッケルロイさん、私たちは60日で人工衛星を打ち上げられる!あんたのゴーサインと60日さえあればいいんだ!!」

フォン・ブラウンの上司のメダリスは我を忘れたヴェルナー・フォン・ブラウンを静止し、冷静に言った。

「いや、ヴェルナー、90日だ。」

 

アメリカ国内のもう一つの「冷戦」

 

フォン・ブラウンの怒りも無理はなかった。宇宙への夢を追って1945年にドイツからアメリカに渡ってから、はや12年が過ぎていた。しかし、アメリカ陸軍が彼に与えた仕事は、ナチス時代と同じミサイル開発だった。

それでも彼の心は折れなかった。ミサイルとロケットは技術的には同じだ。いつかチャンスは来る。そう信じて陸軍でミサイル開発に打ち込み、V-2の発展形であるレッドストーン・ロケットを完成させた。

1955年、フォン・ブラウンは陸軍ジェット推進研究所(JPL)と組み、国防省に人工衛星を打ち上げる計画を提案した。内容はこうだ。フォン・ブラウンのレッドストーンを第1段として用い、その上にJPLの小型ロケット・サージェントを11本束ねた第2段、その上に3本束ねた第3段、さらにその上に1本のみの第4段を置く。第1段から順に点火し、第4段が燃え尽きると秒速7.9 kmに達して、重さ数kgの小さな人工衛星が地球のまわりを周る。第1段から4段まですべて全て既存の技術のみを用いた、短期間で実行可能な、手堅い計画だった。

JPLに展示されている陸軍の人工衛星と第2段から第4段までの模型(撮影:筆者)

一方、海軍と空軍もそれぞれ独自の人工衛星計画を提案していた。アメリカでは各軍の間に強いライバル意識がある。敵はソ連だけではなかった。「冷戦」はアメリカ国内にも存在したのだ。

技術的に優れていたのは明らかにフォン・ブラウンの陸軍チームだった。しかし、選ばれたのは海軍。理由は政治的なものだった。レッドストーンはナチス・ドイツの技術をもとに作られたが、海軍のロケットはオール・アメリカ製だった。また、軍用ミサイルであるレッドストーンがソ連上空を飛び、ソ連を刺激することを政府は恐れた。(海軍のロケットは研究用だった。)

そこで諦めの悪いフォン・ブラウンは議会に訴えた。CIAからはソ連が巨大なロケットを開発しているという情報がもたらされていた。一方、海軍の計画は遅延に遅延を重ねていた。このままではソ連に先を越されてしまうぞと議員たちを脅したのだった。

しかし政治家の腰は重かった。アレン・エレンダー上院議員はこんなことまで言った。

「俺はソ連訪問から帰ってきたばかりだけど、道にほとんど自動車なんて走っていなかったし、走っていても古臭いオンボロばかりだったよ。そんな国に人工衛星なんて、できるわけないさ。」

それでも諦められないフォン・ブラウンは、1956年9月、弾頭の再突入の研究という名目でロケットの実験を行った。ただし第4段は本物のロケットではなく、砂を詰めただけのダミーだった。国防省はフォン・ブラウンがこっそり人工衛星を打ち上げようとしているのではないかと疑った。陸軍が海軍の先を越しては非常に都合が悪かった。そこで国防省は査察官を送り込み、本当に第4段がダミーかチェックまでした。

実験は完璧に成功した。この時もし第4段に本物のロケットを使っていたら、アメリカは世界初の人工衛星打ち上げの栄誉を勝ち取り、フォン・ブラウンは幼少の頃からの夢を叶えていたはずだった。

宇宙に行くロケットを作る。この少年時代から信じ続けた夢を叶えるために、フォン・ブラウンはナチス・ドイツで13年間、アメリカで12年間、いつかチャンスが来ると信じて我慢を続けてきた。

そして彼は負けた。しかも負けたのは、彼に技術がなかったからでも、努力が足りなかったからでもない。政治家が不毛な身内争いに時間を浪費したからだった。フォン・ブラウンが夕食の席で国防長官にぶちまけたのは、25年分の積もり積もった鬱憤だったのだ。

だが、フォン・ブラウンが知らなかったことがひとつあった。ソ連の分厚い秘密のカーテンの向こうに、彼の鏡写しのような天才技術者がいたことを。

その男はフォン・ブラウンと同じように、若い頃に宇宙への夢にとり憑かれ、戦争や政治に翻弄されながらも、頑固に夢を追い続けた。唯一違ったのは知名度だった。ディズニーの番組に出演し世界的有名人になっていたフォン・ブラウンとは対照的に、その男はソ連国内でもごく僅かの人以外には存在すら知られていなかった。ソ連の徹底した秘密主義のせいだった。

 

コロリョフ

 

その男は名をセルゲイ・コロリョフといった。

歳は50。童顔だったが、ボクサーのように顎が歪んでおり、歯はほとんどが義歯だった。苦労した男の顔だった。髪はボサボサ、シャツはシワだらけで、指はいつもタバコのヤニで汚れていたが、女にはよくモテた。そして女好きだった。


セルゲイ・コロリョフ

コロリョフが3歳の時に父が離婚して去った。母は遠くの大学に行ったため、彼は裕福な祖父母の邸宅に閉じこもり、孤独な幼年期を過ごした。友達はおらず、子供らしい遊びもしなかった。

人生を変えたのは、6歳の時に彼が住む田舎町にやってきた飛行機のショーだった。彼は祖父に肩車されながら、小さな複葉機が自由に大空を舞うのを見た。飛行機を見たのは初めてだった。もしかしたら「自由」を見たのも初めてだったのかもしれない。その日から、彼は空の虜になった。

コロリョフは大学で飛行機の設計を学び、ソ連の伝説的な航空機設計者であるアンドレイ・ツポレフの指導を受けた。23歳の時に飛行機の免許を取り、自ら操縦するようになった。そして飛行機を限界まで高く、さらに高く飛ばすうちに、ある疑問が彼の心に湧いた。

「この上には何があるのだろう?」

それが、宇宙に興味を抱いたきっかけだった。

しかし戦争の足音が聞こえだした1930年代のソ連で、コロリョフに与えられた仕事は、フォン・ブラウンと同じく、ミサイル開発だった。彼は頭角をあらわし、20代後半でソ連のジェット推進研究所の副所長にまで登りつめた。

悲劇は突然やってきた。1938年6月、黒服の秘密警察が彼のアパートに踏み込んできた。恐怖に怯える妻と、泣きじゃくる3歳の娘を残し、彼は連行された。原因は、同僚によるありもしない罪の密告だった。行き先はシベリアだった。歯がほとんど抜け落ちるまで拷問され、死刑宣告を受けた。

6年後、なんとか生きて釈放されたコロリョフに与えられた仕事は、ドイツから奪った フォン・ブラウンのV-2ロケットの研究だった。戦後にドイツから連行した技術者を使い、彼はまずV-2のコピーであるR-1ロケットを作った。そしてそれを元に、R-2、R-5と、徐々にロケットを大型化した。そして1957年、ついに彼は最高傑作、R-7を完成させた。

R-7。高さ34メートル、重さはレッドストーンの10倍の280トン。ロケットの下半分を末広がりの4本のブースターが取り囲んでおり、その形はロングスカートをはいた女性を思わせた。しかし、その性能はおぞましかった。 8,000 kmを飛び、アメリカ全土に原子爆弾を落とすことができた。そう、これは核ミサイルだった。


R-7ロケット
Credit: Heriberto Arribas Abato

ロケットと原子爆弾の組み合わせ。これこそまさに悪魔の兵器だった。たった一発で大都市を廃墟にすることができ、当時のいかなる技術をもっても打ち落せず、住民に避難する時間的猶予すら与えないのだ。

航空技術においてアメリカに大きく水をあけられていたソ連は、形勢を逆転するため、他の技術や国民の生活さえも犠牲にして、ロケットに予算を集中投下した。独裁国家だからこそできる大博打だった。

コロリョフはこの悪魔の兵器に、自らの夢をこっそりと忍ばせた。R-7はほんの少しの改造を加えるだけで、秒速7.9 kmの壁を破り、地球周回軌道に乗ることができた。そして彼はその夢を売り込むタイミングを、慎重に見計らった。

コロリョフが世界初の核ミサイル実験を成功させた3週間後の1956年2月27日。ソ連の最高指導者フルシチョフがコロリョフの設計局に視察に訪れた。巨大なロケットの実物を見て、最高指導者フルシチョフはこの上なく上機嫌だった。

タイミングは今しかない。コロリョフは切り出した。

「もう一つだけ、お見せしたいものがあります。」

そして彼はフルシチョフを格納庫の隅に案内した。そこには小さな、あちこちの方向に棒が突き出した、不思議な形の物体が置いてあった。それはロケットでもなければ爆弾でもなかった。一体それがアメリカを負かすためにどう役に立つのか、見当もつかなかった。フルシチョフの頭の上には疑問符が並んでいた。コロリョフは言った。

「人工衛星です。」

 

歌うスプートニク

 

1957年10月3日。後にバイコヌール宇宙基地の名で知られることになるチュラタム・ミサイル実験場は、凍えるように寒い朝を迎えた。

「さて、私たちの最初の子を見送ろうじゃないか。」

ロケットが格納庫を出るとき、コロリョフはロケットを叩きながら感傷的に言った。

ロケットは寝かされて貨物列車に積まれ、発射台まで続く2.4 kmの鉄道の上を、ゆっくり、ゆっくりと動いていった。その後ろを、コロリョフを先頭にした技術者や軍人たちの列が、まるで宗教の儀式のように、静かに厳かに、歩いてついていった。50分かけて発射台に到着すると、ロケットはゆっくりと垂直に立てられた。空に向けて屹立したR-7は堂々たる威容だった。

ロケットの先端には原子爆弾ではなく、バレーボールほどの大きさの小さな人工衛星が積まれていた。その衛星には、「シンプルな衛星1号」を意味する、プリスティエイシ・スプートニク1という名前が与えられた。

スプートニクの打ち上げは翌日夜の22時28分に決まった。打ち上げ前、コロリョフや軍の司令官たちは発射台から約100メートル離れた地下壕に入った。

「プスク!(始動!)」

ノサフ大佐が指示すると、兵士がボタンを押し、打ち上げシーケンスが始動した。あとは全て自動で事が進む。コロリョフにできるのは、文字どおり人生を捧げて作ったロケットが設計どおりに飛ぶのを、ただ信じて待つだけだった。それはまさに、手塩にかけた我が子の独り立ちを見送る気分だっただろう。

「点火!」という兵士の声とともに、ロケットは凄まじい炎を吐き、凍てつく夜を真夏の昼のように照らした。地下壕に激しい振動と音が伝わってきた。数秒後、エンジンの出力が最大に達した時、ロケットを地面に縛っていた拘束具が解放された。自由を得たロケットは、コロリョフが少年時代に憧れた空へ、高く、高く、昇っていった。

拍手と歓声が沸きおこったが、打ち上げ8秒後に警報ランプが点灯し、場は一瞬で静まった。ブースターのエンジンの異常だった。もはや見守る以外に何もできないのが、もどかしくてたまらなかった。1秒が1分に、1分が1時間にも感じられた。ロケットはエンジンの不調を訴えながらも、速度と高度を上げていった。

「メイン・エンジン、シャットオフ!」

打ち上げ約5分後に兵士が叫んだ。燃料がすべて燃え尽きたという意味だ。シャットオフは予定より1秒早かった。果たしてロケットは秒速7.9 kmに達したのだろうか?もしほんの少しでも足りなければ、スプートニクはすぐに地球に落ちてしまう。

いてもたってもいられないコロリョフたちは地下壕を飛び出し、屋外に停めてあった通信車に駆けつけた。通信車では二人の通信兵がアンテナを空に向け、スプートニクからの音を拾おうと耳を澄ませていた。

「静かに!」

通信兵が怒鳴った。押しかけた群衆は黙り、固唾を飲んで待った。さまざまな不安がコロリョフの胸を行き来した。

衛星が打ち上げの猛烈な振動で壊れてしまったのではないか?

空力加熱で溶けてしまったのではないか…?

長い、長い、長い静寂が続いた。

そして…

ピー、ピー、ピー、ピー…

周期的な音が、通信兵のヘッドホンから聞こえてきた。間違いなくそれは、宇宙を飛ぶスプートニクからの音だった。通信兵は興奮して叫んだ。

「信号が来たぞ!!」

その瞬間、群衆は歓喜に沸いた。飛び、踊り、泣き、抱き合った。歓喜の中心でコロリョフは言った。

「これは今まで誰も聞いたことのない音楽だ。」


Credit: Gregory R Todd

 

スプートニク・ショック

 

翌日、世界中の新聞の見出しが躍った。

ピー、ピー、ピー、ピー…

スプートニクの「音楽」も、世界中のラジオで繰り返し放送された。

科学者たちは祝福ムードだったが、アメリカの大衆はこのニュースにショックを受けた。そして恐怖とパニックに陥った。「スプートニクはテクノロジーにおける真珠湾攻撃だ」というエドワード・テラーの言葉は、当時のアメリカ人の心情を的確に表している。

それまでアメリカ人は、ソ連をオンボロ車しか作れない二等国だと思っていた。ましてやアメリカと対等な超大国だと認める者は誰もいなかった。そのソ連にアメリカは技術力で負けているのか?人工衛星がアメリカの上空を飛ぶということは、明日にでも核爆弾がニューヨークやシカゴに降ってきうるのか?

人々は傷ついたアメリカのプライドを取り戻すため、一刻も早くアメリカも人工衛星を打ち上げることを望んだ。そして、

「私たちは60日で人工衛星を打ち上げられる!」

そう国防長官に豪語した男が、アメリカにはいた。今こそ彼の出番のはずだった。

だが、それでも政治家は動かず、海軍を優先させる方針は維持された。

そうこうする間に、11月にソ連はスプートニク2号の打ち上げに再び成功した。一方の海軍は12月、全米の期待を一身に集めてロケットを打ち上げたが、発射の2秒後に大爆発した。ぶざまな失敗はアメリカの自信喪失をさらに深めた。

ここに至って政府はやっと、重い腰をほんの少しだけあげた。フォン・ブラウンに打ち上げを準備するよう指示が下ったのだ。しかし、ただ準備するだけで、打ち上げは許可されなかった。あくまで、翌年1月に予定されている海軍の打ち上げが再び失敗した場合のバックアップの扱いだった。

年が明けた1月28日、海軍は技術的トラブルのため打ち上げを延期した。そして海軍がロケットを修理する1月29日から31日までの3日間に限ってフォン・ブラウンに打ち上げの許可が下りた。26年間待ちに待ちに待ち続けた夢への扉が、たった3日の間だけ、ついに開いたのだった。

最後の敵は天気だった。29日は強風のため打ち上げを諦めざるをえなかった。風は翌日もおさまらなかった。チャンスは、あと1日だった。

1月31日の昼。上空の風速を調べるため観測気球があげられた。

120ノット。

ぎりぎり許容範囲だった。フォン・ブラウンの情熱と頑固さに、最後は天気の神も折れたようだった。宇宙への道はついに開いた。

夜10時48分。ロケットのエンジンに火が灯った。吹き出すジェットはフォン・ブラウンの情熱そのもののように熱く明るく輝いた。26年間縛られ続けた彼の夢は、今やっと鎖を解かれて自由を得、まばゆい航跡を夜空に残して宇宙へと旅立っていった。

アメリカ初の人工衛星は、エクスプローラー1号と名付けられた。

日が明けた午前1時。記者会見会場に到着したフォン・ブラウンを、詰めかけた大勢の記者が迎えた。ある記者がフォン・ブラウンに、会場にあったエクスプローラー1号の模型を持ってポーズを撮るように頼んだ。彼は気前よくそれに応じた。その顔は、まるで少年のような無邪気な笑みに包まれていた。

アメリカ発の人工衛星エクスプローラ−1号の打ち上げ成功後、記者会見で人工衛星の模型を掲げるフォン・ブラウン(右)、ヴァン・アレン博士(中)、JPL所長ピッカリング(左)。(Credit: NASA)

エクスプローラー1号の内部(撮影:筆者)

 

NASAの誕生、そして月へ

 

人工衛星に人々がこれほど熱狂するとは、アメリカの政治家も、ソ連の政治家も、全く想像していなかった。彼らに決定的に欠けていたのは、イマジネーションだった。

宇宙への旅。そのイマジネーションはきっと、何万年も昔の人類が美しい星空を見上げた時から抱いていたに違いない。そのイマジネーションはジュール・ベルヌのSF小説を通して、100年の間に世界中の人々の心に深く根付いていた。

夢を見ていたのはフォン・ブラウンとコロリョフだけではなかった。全ての人々が夢を見ていた。人々が夢見たのは、核ミサイルでお互いに殺しあう破滅的な未来ではなく、月や火星へと自由に旅する進歩的な未来だった。だからこそ人々は、高級車を作る国でも原子爆弾を作った国でもなく、宇宙飛行を最初に達成した国を、科学技術の最先進国と認めたのだった。

これ以降、アメリカもソ連も大金を投じて宇宙開発を推進するようになった。

フォン・ブラウンの成功から半年後、アメリカは新たな国家機関を発足させた。アメリカ航空宇宙局、NASAだった。そして1960年、フォン・ブラウンの陸軍弾道ミサイル局は、JPLと共に陸軍からNASAに移管され、NASAマーシャル宇宙飛行センターと改称された。フォン・ブラウンはついにミサイル開発から解き放たれ、 宇宙開発に専念する環境を手に入れたのだった。

しかし、アメリカがソ連に対する遅れを取り戻すのは簡単ではなかった。1961年4月12日、コロリョフのR-7ロケットに乗って世界初の宇宙飛行士ガガーリンが宇宙へと飛び立ち、「地球は青かった」という詩的な言葉を宇宙から持ち帰った。

その3週間後の5月5日、フォン・ブラウンのレッドストーン・ロケットは、アラン・シェパードを宇宙へと送り込んだ。しかし、軌道周回飛行を行ったガガーリンに対して、シェパードが行ったのはたった15分のサブオービタル飛行だった。ソ連の背中は3週間の差以上に遠かった。

それから20日後。アメリカ大統領に就任したばかりのジョン・F・ケネディーが、議会で演説を行った。ケネディーは若く、普通の政治家にはない情熱とカリスマを備えていた。

彼の演説の内容は衝撃的だった。

 「我が国は1960年代が終わるまでに、人間を月に着陸させ、地球に安全に帰還させるという目標にコミットするべきだ。」

つづく

Credit:NASA

=参考文献=

  1. Michael J. Neufeld, Von Braun: Dreamer of Space, Engineer of War, Vintage Books, 2008.
  2. Matthew Brzezinski, Red Moon Rising: Sputnik and the Hidden Rivalries that Ignited the Space Age, Henry Holt and Company, 2007

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〈著者プロフィール〉
小野 雅裕
大阪生まれ、東京育ち。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。2012年マサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科博士課程および同技術政策プログラム修士課程終了。慶應義塾大学理工学部助教を経て、現在NASAジェット推進所に研究者として勤務。

2014年に、MIT留学からNASA JPL転職までの経験を綴った著書『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』を刊行。


さらに詳しくは、小野雅裕さん公式HPまたは公式Twitterから。