毎日を生きよ、あなたの人生が始まった時のように。
ゲーテ
「宇宙開発」といっても、日々の仕事は人が想像するほど華やかではない。
夜10時。1歳の娘のミーちゃんを寝かせた後、パソコンの電源を入れる。こんな時間なのに容赦なくメールが来ている。
あそこが動かない。ここが仕様と違う。これは正しくない。時には歯に衣着せぬ厳しい言葉が書かれている。イラッと来ることも度々ある。
ため息ひとつ付き、画面を切り替える。数万行におよぶコンピューター・プログラムの一部が表示される。次世代火星ローバー「マーズ2020ローバー」を火星で自動運転させるためのプログラムだ。
マーズ2020ローバーのミッションを達成するには、岩だらけの場所を毎日数百メートル安全に自動運転することが要求される。その機能を開発するのが、現在の僕の仕事のひとつである。
問題の原因を探すため、目を画面に近づけて一行、一行、しらみ潰しにチェックする。バグは見つからない。まぶたが重い。頭が回らない。
諦めて立ち上がり、 ミーちゃんのベッドを覗き込む。短い足で毛布を蹴飛ばして、スピー、スピーと寝息を立てている。僕の顔がほころぶ。見るだけで人を幸せにさせる魔法をこの子は持っている。
美しい我が子は、どんな夢を見ているのだろうか。
そして、ふと思う。僕にもこんな時代があったのだ。いつの間に34歳になったのだろう。
夢中で夢を追いかけた三十余年だった。僕に夢と苦労を分け合いながら一緒に成長した友がいた。
それは、「火星探査」だった。
火星探査の幼年期:1976, バイキング〜捕囚のフラストレーション
僕が宇宙船を作る仕事に憧れたのは、7歳の頃だった。1989年にボイジャーが海王星から送ってきた写真に洗礼を受けた。母が買ってくれた図鑑を見ながら、ボイジャーやアポロやバイキングの模型を作った。
「模型」といっても、父の書類の裏紙をセロハンテープで繋ぎ合わせクレヨンで塗っただけのものだったから、ヨロヨロのボロボロで、妹に踏まれてペッチャンコになって大泣きした。
それが、僕の出発点だった。
僕が子供の頃、図鑑に載っていた火星の写真といえば必ず、前回の記事に書いたバイキングが撮ったものだった。バイキング1号と2号が火星に着陸した1976年は僕が生まれる6年も前のことだったが、当時はこの2機の他に火星に着陸した探査機はなかった。
バイキングには足も車輪もなく、着陸した場所からピクリとも動くことはできなかった。たった2箇所から撮られた写真だけが、当時の人類が知る火星の風景のすべてだった。
赤ちゃんと似ているかもしれない。ミーちゃんはオギャーと生まれたその日から 世界に興味津々で、周りをキョロキョロと見回し、何かに向かって手を伸ばしていた。だがハイハイはおろか、寝返りすらうてない。どれだけじれったかっただろう。
バイキングの科学者も同じ気持ちだったと思う。その一人がカール・セーガンだった。彼は一般向けの宇宙の本の名作中の名作『コスモス』の著者でもある。この本にインスパイアされて宇宙の道に導かれた科学者は数知れない。
その中で彼はこう書いている:
バイキングの写真を見る時、私の心を占め続けた感情は、動けないことへのフラストレーションだった。(中略)私たちはどれだけ、あの砂丘をサンプル・アームの先でつっつくことができたらと望んだことだろう。あの岩の下に生命を探せたら。あの遠くの峰がクレーターの縁かを確かめられたら。クリュセ平原のここから南東のそう遠くない場所に、4本の曲がりくねった流れの跡があるのを私は知っている。(中略)この着陸地点よりもっと面白い火星の場所を、私は百も知っているのだ。
だが、科学者にとってもっと大きなフラストレーションは、バイキング以降、火星探査が途絶えたことだった。
バイキングの成果が華々しすぎたのかもしれない。惑星探査の目的地は金星や木星など他の星へと移った。あたかも火星探査がもう済んだかのように。現実には、まだ始まったばかりだったというのに…。
火星探査の思春期:1997年、マーズ・パスファインダー〜自由への前進
人類がようやく火星に戻るのは、バイキングから21年も経った1997年のことだった。
僕は中学3年になっていた。男子校で、放課後の時間の半分は汗臭い根性論はびこるソフトテニス部の練習に費やし、もう半分は「女の子とのキスはどんな味だろう」と妄想したりして過ごしていた。どうやって親を説得してピッチ(PHS、簡易携帯電話)を買ってもらうか、などが当時の友人同士の会話だった。
友達同士で夢を語ることなどなかった。夢がなかったわけじゃない。ただ、恥ずかしかっただけだ。他の友達もそうだったと思う。
僕が夢を語る相手は、火星にいた。21年ぶりに火星着陸に成功した、マーズ・パスファインダーだった。
父が毎月買っていた雑誌「ニュートン」やNHKスペシャルを通して、僕は興奮しながらマーズ・パスファインダーを応援した。
「待っているぞ」
とパスファインダーは僕に言った。
マーズ・パスファインダーは、映画『オデッセイ』に登場したので知っている読者も多いかと思う。地球と通信するために砂から掘り出した、あれだ。
この探査機は二つの点でバイキングと大きく異なっていた。
ひとつは、エアバッグを使って着陸した点だ。バイキングと同じようにパラシュートとロケット逆噴射で減速するが、最後は上空20メートルから自由落下する。探査機全体をエアバッグで包み、大きくバウンドしながら着陸するのだ。こうすることで着陸メカニズムを単純化でき、信頼性を上げ、コストを大幅に節約できた。
もうひとつは小型ローバーを積んでいたことだ。「ソジャーナ」と名付けられたこのローバーは、重さたった10kgのボディーに6つの車輪を備えていた。
ソジャーナの行動範囲は着陸機からの電波が届く距離に限られた。総走行距離はたったの100 m程度だった。
それでも、歩くことを覚えた子供のように、人類はついに赤い大地を走る自由を得たのだった。まだ母親の目の届く場所にしか行けないが、カール・セーガンの夢が、ようやく少しだけ実現したのだ。
ところがカール・セーガン本人は、マーズ・パスファインダーが地球を飛び立った2週間後に62歳でこの世を去った。ソジャーナが火星を走る姿をどれだけ見たかっただろう。
マーズ・パスファインダーの着陸機は、「カール・セーガン記念基地」と名付けられた。
彼の夢は、火星の地で永遠の命を得た。
火星探査の青春期:2004, スピリット&オポチュニティー〜赤い星の青い夕焼け
火星の大地を自由に走りたい。
この夢の究極の実現が、2004年1月に着陸した双子の火星ローバー、スピリットとオポチュニティーだった。自力で地球と通信できるため、着陸地点からいくらでも遠くへ走ることができた。
僕は大学3年になっていた。大学の最初の1年はテニスサークルでひたすら馬鹿騒ぎをし、2年目で馬鹿騒ぎに飽きてバックパック旅行に目覚め、中国やヨーロッパを鉄道に揺られて自由気ままに旅した。家族旅行とは違う自由が楽しかった。親や先生の目が届く範囲にいる必要は、もはやどこにもなかった。
旅はどれだけしても飽きなかった。歩けば歩くほど新たな出会いがあり、それがさらに次の旅をインスパイアした。今でも旅は僕の最大の趣味である。
スピリットとオポチュニティーも、自由な火星の旅をさぞかし楽しんだことだろう。
この頃にまた、僕は夢に少しだけ近づいた。
2003年、東大の中須賀研究室が、学生の手作り人工衛星XI-IV(サイ・フォー)を世界ではじめて打ち上げ、成功させた。研究室への配属は4年生になってからだが、待ちきれず、僕は研究室の門を叩いた。
研究室に泊まり込み、夜明け前に日本上空を通過するXI-IVと交信した。新しい人工衛星のための電子回路を組み、プログラムを書いた。研究室ではもっとも下っ端で、小さな仕事しかさせてもらえなかったが、それでも自分が作ったものが宇宙に行くと思うと心が踊った。
一方、火星では2台のローバーが90ソルの設計寿命をはるかに超えて走り続けていた。「ソル」とは火星の一日のことで、24時間40分である。
スピリットは2269ソル、約6年半にわたって稼働し、7.7 kmを走破した。その旅は困難の連続だった。
最大の困難は冬越しだった。太陽電池の発電量が減る上に、ヒーターの消費電力が増えるからだ。しかも、スピリットの着陸地は南半球だった。前回書いたように、火星の南半球の冬は北半球よりも厳しい。
スピリットはまるでクマのように「冬眠」して3度の冬を乗り切った。日当たりの良い北向きの斜面に止まって、じっと動かず、不必要な機器の電源は全て切り、地球との交信も最小限にして、春が来るのをひたすら待つのである。
辛い長旅で体も傷だらけになった。6つの車輪の一つが動かなくなり、残る5つの車輪でびっこを引くように走り続けた。
最後は砂に埋まって動けなくなり、次の冬を越せず、「コロンビア・ヒルズ 」の麓で永遠の眠りについた。
一方、スピリットの兄弟のオポチュニティーは、気候が穏やかで地形も平坦な場所に着陸したため、トラブルは比較的少なく、着陸から13年経った現在も元気に走っている。2017年4月現在、走行距離は44.4 kmにも達する。
まるで旅先から届く絵葉書のように、2台のローバーは多くのエキゾチックな写真を撮ってよこした。その中で僕が一番好きな一枚は、スピリットが撮った火星の夕焼けの写真だ。
火星の夕日は青い。火星の大気を覆うダストが、ミー散乱という仕組みで赤い光を散乱してしまうためだ。
その絵葉書の裏には、こう書いてあった。
「まだこっちに来ないのか?」
火星探査の飛躍期:2012, キュリオシティー〜走り去った夢
地球の友人たちは就活にあくせくしだしていた。みんな髪の毛を黒く染め、人気企業ランキングを研究し、夢をエントリーシートの四角い欄にぎゅうぎゅうと押し込んでいた。
一方、火星にいる二人の友人は、自由に、孤独に、赤い大地を走り続けていた。
「みんなと同じでいいのか?」
ローバーは言った。
2005年、僕はアメリカに留学した。6年半の留学は、言葉の壁、文化の壁、授業や研究の高い要求レベル、そして優秀な同級生たちとの競争で、苦労の連続だった。
一方、NASAでは次のローバーの計画が進んでいた。マーズ・サイエンス・ラボラトリーという名のこのミッションは、小型乗用車ほどの大きさもあるローバーを火星に送り込み、過去と現在の火星において生命が存在できる可能性を探る、というものだった。
僕もその旅の一員になりたかった。卒業が近づいた2011年2 月、僕はNASA JPLの面接を受けた。
ところが、ちょうどその頃は新ローバーの開発がほぼ完了したため職員が余剰になり、レイオフが行なわれていた頃だった。もちろん、それだけを言い訳にはできない。僕自身の力不足も大きかっただろう。
夢は叶わなかった。
「キュリオシティー」と名付けられた新ローバーはどうも僕に冷たかった。彼は火星へ飛び立つ準備を着々と整えていた。僕はどちらへ飛んだらいいのか分からなくなっていた。
結局、卒業後は日本に戻り、慶應大学で助教として勤めることになった。キュリオシティーの着陸は日本で見た。
キュリオシティーはエアバッグで着陸するには重すぎる。代わりに奇抜で斬新な着陸方法が採用された。ロケットで空中ホバリングする「スカイ・クレーン」から、ロープでローバーを地面に下ろすという方法だ。
着陸は蒸し暑い8月の、日本時間の昼過ぎだった。慶應の日吉キャンパスの食堂で遅めの昼食を食べながら、僕はラップトップを開いてライブ・ストリーミングを見ていた。
着陸成功に歓喜するJPLの人たちの姿を見ながら、僕の気持ちは複雑だった。以前の火星着陸のように素直に喜べなかった。
もちろん、着陸に成功したこと自体は嬉しかった。
でも、どうして僕はあちら側にいないんだろう?
どうして僕は日本の食堂でざるそばをすすりながら、他の何百万の大衆と何も変わらず、夢の舞台を画面越しに眺めているのだろう?
「こっちは楽しいぜ。」
キュリオシティーは冷たく言った。
だが、僕は諦めていなかった。チャンスの糸口を、つかみかけていた。
実は、留学を終えてから慶應に就職するまでの間に、幸運にもJPLでインターンをする機会を得ることができた。僕を採用しなかったことを後悔させてやろうという怨念にも近い気持ちで死ぬほど頑張り、誰も否定しようがない成果を出した。手応えを感じていた。
キュリオシティーが着陸してから2ヶ月後、JPL から連絡があった。インターンの成果を評価してもらえた結果だった。僕は2013年5月から、やっと夢の舞台に立てることになった。
だが、JPLに入ったからといって、やりたい仕事をできるわけではない。
入って1年ほどして、キュリオシティーのオペレーションの仕事の募集が回ってきた。つまり、ローバーを「運転」する仕事だ。もちろん応募した。
仕事には「所内選抜」がある。希望する職員を面接して、プロジェクトが「採用」する人を決める。
所内選抜の結果は、落選だった。
やっと辿り着いたと思ったのに、ローバーはすでにどこかに走り去ってしまったようだった。キュリオシティーはどこまでも僕に冷たかった。
追いかけるしかなかった。轍は見えていた。チャンスはいつか来る、と信じ続けた。自分で小さな研究費を取り、火星ローバー関係の研究をやった。研究した技術がいつか本物の火星ローバーに採用されることを信じて。
仕事がない時は軍事関係の研究もやった。正直、興奮する仕事ではなかった。
火星探査の望郷期:2020, マーズ2020ローバー〜究極の夢へ
キュリオシティーが僕に構うことなく火星を走り出した頃、JPL内部ではすでに次の計画が練られつつあった。
火星を走る自由を得た科学者にとって究極の夢は火星の土を地球に持ち帰ることだった。
今までの火星ローバーは全て、その場で岩石などの分析をした。だが、科学機器を搭載するローバーのスペースは非常に限られる。厳選した数種類の科学機器しか、持っていくことができない。
もしほんの10グラムでも火星の土を持ち帰ることができれば、地球上のあらゆる研究所や大学の機器を総動員して、ありとあらゆることを調べられる。得られる科学的成果の量は桁違いだ。
成長して都会でひと旗揚げた若者が、土産を持ってふるさとに帰省するようなものだろうか。火星ローバーももしかしたら、望郷の念を抱いているのかもしれない。
火星の土を持ち帰ること、つまり火星サンプルリターンは、簡単ではない。
JPLは3段階からなる火星サンプルリターンの構想を立てた。
まず、最初のローバーが火星の岩石や土のサンプルを集めて試験管に入れ、地面に置いていく。次に、別のローバーがそれを回収し、ロケットで火星軌道まで打ち上げる。最後に、オービターが火星軌道から地球までサンプルを持ち帰る。
その第一段階として計画されたのが、「マーズ2020ローバー」だった。この計画は2015年頃から動き出した。
そしてどうやら、僕がやった研究がマーズ2020ローバーのマネージャーの耳に入っていたらしい。
ついに、声がかかった。
まず来た仕事が、ローバーの着陸候補地点の解析だった。
次に来た仕事が、冒頭に書いた、自動運転ソフトの開発だった。
夢みたいだった。僕はついに、本物の火星ローバーを 作ることになったのだ!血が沸騰するほど興奮した。
「遅かったな 。」
ローバーは言った。
「夢が叶う」とは?
冒頭に書いた通り、夢の仕事とはいえ、日々の作業は地味で、大変で、苦労の連続だ。
だがそれでも、夜遅くまでオフィスに残り、仕事に疲れた時、目を閉じて思い出す。子供の頃、紙をセロハンテープで繋いで宇宙船を作りながら見た夢を。
長い道のりだった。
叶った後の夢には、現実の苦味が混じっていた。
でも、僕は確かにあの頃の夢を生きている。あの頃の夢は生きている。そんな心地良い充実感が、疲れの中に混ざっている。
それがつまり、「夢が叶う」ということなのだと思う。
きっと多くの人にとってもそうだろう。
オフィスで。店頭で。工場で。運転席で。かつて子供だった大人は、今日も汗を流して働いている。
彼ら、彼女らは子供の頃、何にも邪魔されず、自由に大きな夢を見た。スポーツ選手。女優。忍者。お姫様。それがそのまま叶った人は、おそらくほとんどいなかろう。
だがそれでも、そんな夢の抽象的な構成要素のほんの一部…たとえば、サッカー選手の顔に溢れていた自分の仕事への誇りだったり、歌手が歌を歌い上げて拍手喝采を浴びた時の達成感だったり、仮面ライダーが弱い人を助けた時のカッコ良さだったり、お姫様の美しさと優しさだったり…そういったほんの小さな昔の夢のかけらが、あなたの日々の仕事の中に今も生きているのではなかろうか。だからあなたは、今日も仕事を頑張ろう、と思うのではなかろうか。
それがつまり、「夢が叶う」ということではなかろうか。
そしてこれこそが、子供が夢を見る理由ではなかろうか。
火星探査と、ミーちゃんの未来
ミーちゃんは相変わらず幸せそうな寝息を立てている。人生を歩みだしたばかりのこの子はどんな未来を生きるのだろう。
ミーちゃんの未来を想像することほど楽しいことはない。きっと美しい女性になるだろう。たくさんの男がミーちゃんに恋するだろう。将来何になるのかな、とよく妻と話す。
実際のところ、ミーちゃんが何になるかは予想なんてできない。でも、ミーちゃんが何を見るかは、予想できる。
数年後、文字が読めるようになったミーちゃんは親に図鑑を買ってもらう。そこにはたった2台の動けぬ着陸機から撮った写真ではなく、ローバーが何十kmも走って撮影した、変化に富んだ様々な火星の写真が載っているだろう。火星の青い夕日の写真も載っているだろう。
ミーちゃんが思春期を迎え、恋と自由に憧れる頃、火星の土が地球に持ち帰られるだろう。人類の地球外生命との遭遇を、彼女は目撃することになるかもしれない。
そしてミーちゃんが親の手を離れ、大学で青春を謳歌する頃には、人類は火星の土を踏むことになるだろう。
ミーちゃん自身が火星の土を踏むことも、もしかしたらあるかもしれない。
その頃には僕は引退間際だ。命は短い。ミーちゃんは僕が知れない未来を見る。それはどんな未来だろうか?
ふと、ルイ・アームストロングの名曲What a Wonderful Worldの一節が頭に浮かぶ。
I hear babies cry, and watch them grow(赤ちゃんが泣くのを聞き、成長するのを見る)
They’ll learn much more than I’ll ever know(彼女たちは僕よりはるかに多くを知ることになるだろう)
ミーちゃんは将来、何になるのだろう?
僕は、ミーちゃんに宇宙への夢を押し付けることは決してしない。巨人ファンになると言い出したら全力で阻止するが、そうでなければ、歌手になりたいと言っても、お姫様になりたいと言っても、心から応援するつもりだ。
だが、絶対にミーちゃんに伝えたいことが一つだけある。
シンプルな、たった4文字のメッセージだ。
僕はその4文字の意味を理解するのに三十年かかった。多くの苦労をした。
それでも信じ続ける価値のある4文字だった。
「夢は叶う。」
(つづく)
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〈著者プロフィール〉
小野 雅裕
大阪生まれ、東京育ち。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。2012年マサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科博士課程および同技術政策プログラム修士課程終了。慶應義塾大学理工学部助教を経て、現在NASAジェット推進所に研究者として勤務。
2014年に、MIT留学からNASA JPL転職までの経験を綴った著書『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』を刊行。