宇宙飛行士は完璧か?/『宇宙に命はあるのか 〜 人類が旅した一千億分の八 〜』特別連載22 | 『宇宙兄弟』公式サイト

宇宙飛行士は完璧か?/『宇宙に命はあるのか 〜 人類が旅した一千億分の八 〜』特別連載22

2018.06.30
text by:編集部コルク
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「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!

『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕さんがひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕さんの書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。

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マーガレット・ハミルトンはすぐに頭角を現し、数年のうちにアポロのフライト・ソフトウェア全てを統括する立場になった。仕事は多忙を極めた。彼女は夜や休日も関係なく働き、娘のローレンはすっかり職場の顔馴染みになった。

ある日、退屈したローレンはアポロのシミュレーターで遊んでいた。そして偶然、「PO1」という打ち上げ準備のプログラムを作動させてしまい、シミュレーターがクラッシュした。

それを見たハミルトンはふと思った。万が一、実際の飛行中に宇宙飛行士が同じ間違いをしたらどうする? 宇宙飛行士だって人間だ。ならば間違いを犯しうるのではないか?

そして彼女にアイデアが閃いた。当時の常識では、コンピューターは人間に指示された仕事を忠実にこなすだけの機械だった。機械が人間に意見することなど考えられなかった。だが、その常識を逸脱すれば人間の間違いを未然に防ぐことができる。つまり、人間がプログラムの実行を指示した時、それが致命的な結果に至らないかをコンピューターがチェックする。もし危険があると判断した場合は人間の指示を拒否したり、アラームを出したりする。

当時のプログラムはキーボードではなくパンチカードで入力する必要があるため、開発には余計に時間がかかった。大きなプログラムは何千、何万枚ものパンチカードになった。そしてどんなに忙しくても、子育てに休みはなかった。

しかし、苦労の末に完成したエラー回避ソフトウェアはNASAに却下された。「宇宙飛行士は完璧に訓練されているから決して間違えない」というのが理由だった。中でも誰よりも激しく反対したのは、宇宙飛行士自身だった。たとえばアメリカ初の宇宙飛行士でアポロ14号の船長となるアラン・シェパードは冷淡に言った。

「この安全ソフトを全部消せ。もし俺らが自殺したくなったら、させろ。」

一体何がハミルトンを前に進ませ続けたのだろう? 女性は家で家事をするのが常識だった時代に子育てをしながら働き、夜を徹して作ったプログラムを却下され、宇宙飛行士に罵言まで浴びせられてもなお、なぜ彼女は常識に抗おうとしたのだろうか?

この時は結局ハミルトンが折れ、代わりに宇宙飛行士向けのマニュアルにこう書き込んだ。

「飛行中にPO1を実行しないこと。」

ハミルトンが正しかったことは、後に証明された。

1968年のクリスマス。MITの会議室にいたハミルトンは、ヒューストンからの電話に呼び出された。電話の主は切迫感のある声でアポロ8号のトラブルを告げていた。

アポロ8号は有人宇宙船としては初めて地球軌道を脱して月を周回した後、地球への帰途についていた。再突入までの二日半の航海は特に大きな予定もなく、ジム・ラベル宇宙飛行士は六分儀を使ったナビゲーションの実験をしていた。六分儀とは18世紀の船乗りが星を使って大海原で自分の位置を知るための道具である。アポロにもコンピューターに接続された六分儀が搭載されており、電波による追跡が万が一失敗した場合、それを使って18世紀の船と基本的に同じ方法でナビゲーションし地球に帰還することになっていた。

繰り返し作業のため集中力が切れていたのかもしれない。ジム・ラベルは「01」番の星をコンピューターに登録しようとした際、間違えて禁断の「PO1」を作動させてしまった。コンピューターのナビゲーション・データがリセットされ、現在位置を見失ってしまった。このままでは地球への帰還は不可能だった。

ハミルトンたちは数時間かけて入念に問題を診断し、ヒューストンと宇宙飛行士に解決法を指示した。最後はラベルが六分儀で星を観測し手動でナビゲーション・データを再調整し、事なきを得た。もしハミルトンが提案した安全ソフトが採用されていれば未然に防げたはずのトラブルだった。

ハミルトンもなかなかの頑固者だったようだ。安全ソフトは採用されずに終わった。しかし、どんな人間でも間違いを犯しうるという洞察、そしてコンピューターが人間の間違いを補えるというアイデアを、彼女は捨てなかった。

後にアポロ11号を危機から救うことになる技術は、彼女の思い付きから生まれた。

「自分たちプログラマーも間違いを犯しうるのではないか?」

そう謙虚に考えたのだ。もちろん、ソフトウェアは徹底的にチェックされる。それでも、徹底的に訓練された宇宙飛行士もミスを犯すように、チェックをすり抜けてしまうバグもあるかもしれない。ならば、万が一バグがあっても人命に関わるトラブルを回避できるソフトウェアを作ればいいのではないか?

この思想のもと、ハミルトンのチームはアポロのソフトウェアに、ある重要な機能を忍び込ませた。もし万が一、何らかの原因でコンピューターがフリーズしそうになったら、プログラムを一度全て終了し、宇宙飛行士の生死に関わる重要なプログラムだけを再起動させる。 そしてそれを知らせるためにアラームを出す。

そのアラームのコードが「1202」だった。

(つづく)

 

<以前の特別連載はこちら>


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【第14回】〈一千億分の八〉月探査全史〜神話から月面都市まで
【第15回】〈一千億分の八〉人類の火星観を覆したのは一枚の「ぬり絵」だった
【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
【第17回】〈一千億分の八〉火星ローバーと僕〜赤い大地の夢の轍
【第18回】〈一千億分の八〉火星植民に潜む生物汚染のリスク

〈著者プロフィール〉

小野雅裕(おの まさひろ)

NASA の中核研究機関であるJPL(Jet Propulsion Laboratory=ジェット推進研究所)で、火星探査ロボットの開発をリードしている気鋭の日本人。1982 年大阪生まれ、東京育ち。2005 年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9 月よりマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学。2012 年に同航空宇宙工学科博士課程および技術政策プログラム修士課程修了。2012 年4 月より2013 年3 月まで、慶応義塾大学理工学部の助教として、学生を指導する傍ら、航空宇宙とスマートグリッドの制御を研究。2013 年5 月よりアメリカ航空宇宙局 (NASA) ジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)で勤務。2016年よりミーちゃんのパパ。主な著書は、『宇宙を目指して海を渡る』(東洋経済新報社)。現在は2020 年打ち上げ予定のNASA 火星探査計画『マーズ2020 ローバー』の自動運転ソフトウェアの開発に携わる他、将来の探査機の自律化に向けた様々な研究を行なっている。阪神ファン。好物はたくあん。

さらに詳しくは、小野雅裕さん公式HPまたは公式Twitterから。