往々にして歴史を変えるアイデアとは、世になかなか受け入れられないものである。フランドロが思いついたグランド・ツアーも、最初はほとんど注目されないばかりか、多くの人から机上の空論として扱われた。あまりにも困難だと思われたからだ。世界初の金星・火星探査機を成功させたJPL内でさえ、「そんなの無理だろ」が一般的な反応だった。フランドロは卒業後、別の道を歩んだ。
無理もない。1965年といえば、アームストロングが月に「小さな一歩」を踏み出す四年も前だ。まずスイングバイ航法の現実性が疑われた。12年もの長期間動作する宇宙探査機を作ることも非現実的と思われた。火星への旅ですら、たった8ヶ月だったのだ。
不可能を可能にしたのは、前章で描いたアポロの技術者と同じように、頑固で常識を信じない先駆者たちの、粘り強い研究の成果だった。ドラマでよくあるような、誰かの感動的な一言で反対していた人の心が急に動く、などということは現実には有り得ない。常識という名の巨大な岩に突然羽が生えて飛び去ることはない。長い時間かけて忍耐強く押し続け、ゆっくり、ゆっくり動かすしかないのである。
フランドロのアイデアを引き継いだJPLの数名の研究者が、金星スイングバイを使って水星へ行く方法を研究した。必要なナビゲーションの精度や燃料の量、搭載すべきセンサーなどを詳細に検討し、その結果をもとにスイングバイが実現可能であることを証明した。理論的成果と並行し、JPLは金星・火星探査において成功を一つずつ積み重ね、実践的にも自信を深めた。アポロの宇宙飛行士が月を歩いた頃、JPLではグランド・ツアーは夢物語ではなく現実的な可能性として語られるようになっていた。
NASA本部も最初は乗り気だった。無人探査に興味のなかったフォン・ブラウンさえも熱心に支持したらしい。だが、NASA本部はグランド・ツアーの値札を見て態度を変えた。当時のNASAの最優先事項はスペースシャトル計画だった。その上、ニクソン大統領はNASAの予算を大幅にカットした。海王星に使う金は残されていなかった。
それでも、みすみ175年に一度のチャンスを逃すのは惜しすぎる。JPLがNASA本部やワシントンの政治家と粘り強く交渉を重ね、なんとか勝ち取ったのは、「マリナー・ジュピター・サターン(MJS)」という、木星、土星、そして土星の衛星タイタンだけに目的を絞ったミッションだった。予算の膨張を防ぐため、土星以遠に行くための機器を搭載することは禁止された。
だが、どれだけワシントンが禁止しても、グランド・ツアーへのイマジネーションに取り憑かれた技術者たちの心を抑えることはできなかった。あくまでワシントンに対しては木星・土星ミッションを装いつつ、パサデナのJPLの技術者たちは海王星までの12年の旅の準備を、こっそりとMJSに忍ばせたのだった。たとえば、太陽の位置を検出するサンセンサは太陽から百天文単位を超える距離でも作動するように設計された。1天文単位とは太陽から地球までの距離だ。百天文単位は太陽から海王星までの距離の3倍である。。打ち上げ時期もグランド・ツアーに最適な一九七七年が選ばれた。そしてMJSには「ボイジャー」という新しい名が与えられた。英語で「旅人」の意味である。この名にJPL技術者の密かな想いが込められていたことは、想像に難くない。
かくして、ボイジャー姉妹は生まれた。彼女たちの容姿には、それまでのゴテゴテとした探査機とは異なる優美さがあった。本体には百天文単位の彼方から地球と交信するための白く大きなパラボラアンテナが載り、数本の細く長い腕の先には800×800ピクセルのデジタルカメラや様々な観測機器が取り付けられた。コンピューターには当時最先端の自律的な故障回復機能がプログラムされており、旅の記録を書き留めるために8トラックのテープレコーダーが搭載された。
1977年8月20日、妹のボイジャー2号が先に地球を旅立ち、その16日後に姉が後を追った。後に打ち上げられた方が1号なのは、途中で2号を追い越すからである。
実は、ワシントンが知らないことがもうひとつあった。2号の軌道に、技術者がこっそりとある「仕掛け」を忍ばせていたことだった。
(つづく)