だがここに大きな困難がある。そもそも「生命」とは何なのかを、人類はまだ知らないのだ。地球上のことですら、たとえばウイルスが生命か非生命か長年議論され未だ決着していない。ましてや宇宙で遭遇した未知の現象を、生命か非生命か区別することなどできるのだろうか。定義されていないものを探すとは、まるで鳥とは何かを知らない人が青い鳥を探しに行くようなものではないか?
もちろん、我々は「生命とは何か」について何も知らないわけではない。その証拠に、人は日常で出会うさまざまなものを生命と非生命に直感的に区別することができる。たとえば、今僕がこの原稿を書いているMac Bookは非生命だ。テーブルの上にあるスターバックスのコーヒーカップも非生命だ。バルコニーに敷かれたタイルも、道を走る車も、その向こうに見えるカリフォルニアの青い海と空も非生命だ。一方、花壇に植えられた木は生命だ。そこに止まっている虫も生命だ。先ほど空を飛んでいったカモメも生命だ。海で時々潮を吹くクジラも、それをカメラに収めようとしている若者も、その横でつまらなさそうに立っているガールフレンドも生命だ。なぜ我々は「生命」の定義を知らないのに、見たものを生命と非生命に分けることができるのだろう? なぜ近代的生物学を知らない古の人も「命」という概念を問題なく使うことができたのだろう?
生命とは帰納的な概念であるからだ。「帰納的」とは難しく聞こえるかもしれないが、つまりは定義ではなく具体例が先にあった、という意味だ。生命と非生命の間に、物理学的に与えられた境界線はない。どちらも同じ物理法則に従う「現象」である。コンピューターも、コーヒーカップも、車もタイルも空も海も花も鳥も風も月も、若者もガールフレンドも彼女の倦怠も、そしてそれを観察する小野雅裕も、全ては「現象」である。だが、様々な現象をいくつもいくつも見るうちに、いくつかの特徴を共有するひとつのグループがあることに気づく。その特徴とはたとえば、呼吸をする、代謝をする、子孫を残す、などだ。ウイルスのようにどっちつかずの現象もあるため境界線は明確に引けないけれども、たとえば空に浮かぶ水滴の集合をひとひらの「雲」と数えられるように、一部の現象がモヤッとした塊を成しているのが見えてくる。それらに与えられたラベルが「生命」だ。
では、宇宙で出会った何かしらの現象を、生命現象か非生命現象かに分けるには、どうすればいいのだろう?
もっとも本質的な方法は、宇宙を全て知ることだ。宇宙の隅々まで探査機を飛ばして、あらゆる現象を観察する。そうすれば、地球上の生命と同じように、無数の現象の中に自ずとあるグループが見えてくるだろう。それが宇宙的観点での「生命」にあたるのかもしれないし、もしかしたら二つ目、三つ目のグループもあるかもしれない。
だが、そうするには途方もない時間がかかる。前章で書いたように、人類はまだ宇宙のことをほんのわずかしか知らない。宇宙を全て知るなど、何億年かかっても不可能だろう。
では、一体NASAはどのような方法で、向こう数十年という短期間のうちに、未だ定義すらない「生命」というものを見つけようとしているのだろうか? いかにして、我々は何者か、我々はどこから来たのか、そして我々はひとりぼっちなのかという問いに、答えようとしているのだろうか?