宇宙飛行士選抜試験〜12年間 語ることができなかったファイナリストの記憶〜

宇宙飛行士選抜試験〜12年間 語ることができなかったファイナリストの記憶〜

これまで5回行われてきたJAXA宇宙飛行士選抜試験。一体どのような試験なのだろうか…? その第5期選抜にて、10ヶ月に及ぶ選抜プロセスの最終試験まで勝ち残った経験を持ち、現在は宇宙船「こうのとり」のフライトディレクタに従事する作者による、大きな挫折と前進の記録。

第1章 突然の報、10年ぶりの募集(前編)

第1章 突然の報、10年ぶりの募集(前編)

突然目の前に現れた夢への扉

止まっていた時計の針が再び動き出した。

2008年2月27日
「JAXAが宇宙飛行士を10年ぶりに募集」

まさに青天の霹靂。
ぼくにとってあまりに突然の出来事だった。

この記事を目にした瞬間の感覚は、今でも鮮明に覚えている。
こめかみの辺りがぞわぞわっとして、髪の毛が逆立つような妙な感覚。その次にやって来る高揚感。最後にじわじわっと緊張が襲ってきた。

子供のころからの宇宙への憧れ。そして宇宙飛行士になりたいという夢。
待ち続けていたチャンスが、ついに、そして突然、やってきたのだ。

置き物のように埃をかぶってしまっていた夢。
その夢への道しるべが、予期していないタイミングで、突如として目の前に現れたことによる驚きと、「ついに来た!」という興奮からくる武者震いで、しばらく息をすることも忘れてしまった。

そして、「いよいよ挑戦できるんだ!」という純粋な喜びからくる気持ちの昂ぶりがやってきた。声に出して「やったー!!!」と叫びたいくらいの気持ちを押さえ、小さい声で「やった!」とこぶしを握る。

次に、いざこのチャンスを目の前に、ふと冷静に、「ぼくはこれから挑戦するんだ」という現実を受け入れたときに張りつめた緊張感が湧きあがってきた。
複雑な感情が入り混じりながら、続けざまに、ぼくの心にやってきては通り過ぎて行った。

長い間、夢見てきた。
いよいよ叶えるときだ!

夢だったものが、リアルなターゲットに変わった瞬間だった。

夢のきっかけ(1986-2001)

10歳の時だった。

スペースシャトルチャレンジャー号の空中分解事故のニュース映像が、連日のように流れていた。
打ち上げ後の爆発事故。

アメリカが切り開いた宇宙時代の幕開けに起きてしまった事故を、メディアはセンセーショナルに繰り返し伝えた。

不幸な事故であったが、ぼくにとっては、初めてリアルな最先端の宇宙開発に触れた瞬間であった。
「NASAではスペースシャトルで宇宙を行き来しているんだ!」ということを知る機会となった。

事故映像による恐怖心よりも、子供心に、
「NASAすげー!翼の生えた宇宙船スペースシャトル、めちゃくちゃカッコいい!」と、宇宙開発への憧れの気持ちを抱いたのだ。

そして事故にも負けず飛行再開を果たし、世界の宇宙開発を牽引し続けていく、NASAの技術の力強さにぐぐっと心を掴まれていった。

そして、「大人になる頃には誰もが宇宙に行く時代になっている」と心から信じた。『ガンダム』のように、宇宙船やロボットが飛行機のように自由に飛び交う世界。宇宙に行くのが当たり前になりすぎて、わざわざ宇宙飛行士とは呼ばれなくなっているかもしれない。そんな未来がやってくると信じていた。

限りなく広大で未知な宇宙が大好きだった。

親に宇宙の図鑑を買ってもらった。
宇宙のはじまりや星の一生に興味を持った。太陽の直径は地球の109倍もある。その太陽の1000倍以上もある恒星があると知っては驚き、「無から始まった宇宙は、ビッグバンから広がり続けている」と聞いては、宇宙の端っこって一体どうなっているんだろう?と考えふけるようになった。

宇宙が生まれて138億年、広がり続けている。地球が生まれて46億年。人類が生まれてたった1万年。この広い宇宙には無数の星があり、まだ人類が知らないことが山ほどある。

小学校の文集には、「こんなにも広い宇宙。きっとどこかに宇宙人はいる。いつかきっと会えると思う。」と書いた。
未知なる宇宙に魅せられた少年だった。

大学受験を考えるころ、日本でも宇宙飛行士になれる時代になっていた。
宇宙開発の仕事につながるよう、航空宇宙工学科のある大学を選んだ。
宇宙飛行士になりたいのに、肝心の英語が苦手だったので、なんとかしたいと思っていた。

大学1年で初めての海外旅行で行ったニューヨークではこてんぱんにされた。全く英語が聞き取れず、レストランでも四苦八苦。郊外の大学に通う友人に会いに行ったのだが、わざわざ専門の美術について説明をしてくれた学生の言っていることがまったく理解できず、ただただ絵を眺めていた。コミュニケーションが取れず、悔しい思いをした。

「このままじゃダメだ!」と始めた駅前留学では、宇宙についてよく話題にした。普段は、“宇宙飛行士になりたい”だなど大それたことを友人にも話すことはなかった。しかし、英語だと恥ずかしげもなく、”宇宙飛行士になりたい”という夢を語ることができた。

ちょうどその頃は、日本における宇宙飛行士選抜試験黄金期、スペースシャトルが運行し、宇宙ステーション計画が進められていた。3, 4年おきに宇宙開発事業団(現JAXA)から宇宙飛行士の募集がかけられていた。
「大学を卒業し応募条件を満足したら、まず1回受験。そして、2回目が本番だ!」などと皮算用をしていた。

ところが、だ。

大学院修士1年の時に募集があったのを最後に、まったく募集がなくなってしまった。就職し、3年目には受験資格が得られたのだが、一向に募集がされない状態が続くことになる。

就職活動では、とことん宇宙開発にこだわった。どうしても宇宙開発の仕事に就きたかった。

想いが届き、石川島播磨重工(当時、現IHI)の宇宙開発事業部に配属してもらえることができた。HOPEプロジェクトという、日本版無人のスペースシャトルの開発を行うプロジェクトを希望したのだが、入社後に告げられたのは、「HOPEプロジェクト凍結」という悲しい現実だった。その代わりに「新しいプロジェクトがあるからそこで頑張りなさい」と配属されたのが、宇宙ステーション補給機「HTV」(現愛称「こうのとり」)プロジェクトだった。

仕事はとてもやりがいがあった。

宇宙ステーション補給機「HTV」(現「こうのとり」)は、日本がこれまで手がけたことのない大きさかつ高い安全性を有したランデブ宇宙船だ。高度400kmに浮かぶ巨大な有人宇宙基地である宇宙ステーションまで、定期的に物資を届けることができる。

上司は完璧主義者で厳しかった。ぼくの描いた図面はいつも真っ赤になって返ってきた。朝から晩までパソコンの画面に向かい続けていた。2001年9月、貿易センタービルに飛行機が突っ込んだというニュースを知り(日本時間22時頃)、一体何が起きたのかとあわててテレビをつけたのも、まだオフィスにいる時間だった。ぼくは25歳になっていた。

早く一人前になりたくて、仕事に没頭していた。
宇宙開発の仕事を続けていくことの延長に、宇宙飛行士への道がつながっていると信じていた。

夢に近づきつつもしまわれてしまう(2002-2008)

ぼくは若田飛行士に強く憧れていた。

JALの若手技術者から転身、たった1人、宇宙飛行士候補として選ばれた。その4年後、弱冠32歳でスペースシャトルによる初フライト、2000年には2度目のフライトで宇宙ステーション組み立てミッションに参加し、いずれもロボットアームの高い操作技術でミッションを成功に導いていた。NASAの信頼も厚い日本のエースだ。

NASAの宇宙飛行士や管制官からも「The Man(男の中の男)」と称される日本人宇宙飛行士。積み上げてきた実績が半端ない。“憧れ“という気持ち以上に、”目指すべき宇宙飛行士像“として尊敬していた。

入社して間もないぼくに、若田飛行士と一緒に仕事ができる願ってもないチャンスが訪れた。

「きぼう」船外実験プラットフォーム向けに開発されたコンポーネントの設計エンジニアとして、筑波宇宙センターに派遣されることになった。「勉強がてら1人で行って来い!」と幸運にもチャンスが巡ってきたのだ。

宇宙開発事業団(現JAXA)には、WETS(注釈:1)と呼ばれる直径10m、深さ10mの円柱状のプール(水槽)があった。船外活動(EVA)訓練のための設備であるとともに、「きぼう」や「こうのとり」など、日本が開発した宇宙機の組立や故障時のメンテナンスに必要なEVAの模擬試験を行うことができる大がかりな設備だ。

そこで、若田飛行士とNASAのデイビッド・ウルフ飛行士による「きぼう」と「こうのとり」に対するEVA試験を行っていたのだ。

ぼくは、若田飛行士、デイビッド飛行士と試験に参加するメンバー向けにコンポーネントの設計に関する注意事項の説明を行う機会を得た。もちろん英語だ。
ぼくは宇宙飛行士が船外活動を行うときに“触ってはいけない場所”、“できるだけ触らないで欲しい場所”などの注意事項を、理由と共に一所懸命丁寧に説明した。拙い説明であったにも関わらず、若田飛行士は、真剣なまなざしでぼくの説明を聞いてくれた。そして、自分が理解したことの確認という形で、正しい英語で復唱してくれた。これは、説明が全員に十分伝わらなかったかもしれないことを踏まえ、自分が理解したことの確認という形で認識の確認を行ってくれたのだ。特に、「can」と「can’t」の発音/アクセントが伝わりにくかったようだ。

ただ、若田飛行士の確認のおかげで、ぼくも「きっちり伝えることができた!」と安心することができた。気を遣われた恥ずかしさよりも、若田飛行士の人間の大きさに感動し、さらに憧れを強くした。

帰り際、こっそりとカバンに忍ばせてきた色紙に、お願いをしてサインをもらった。

(注釈1)WETS(無重量環境試験設備):1994年に完成し、1996年より「きぼう」や「こうのとり」の設計検証や、宇宙飛行士の基礎訓練、船外活動模擬訓練等に使用された。2011年の東日本大震災時に破損し、今では取り壊されてしまった。ぼくは、「こうのとり」の設計検証で潜ったこともあるし、宇宙飛行士選抜試験では泳力試験の会場にもなった、非常に思い出深い場所だ。取り壊される直前に中に入り、内壁の欠片を記念に持ち帰って今でも大事に取っている。

2006年、宇宙ステーション補給機「こうのとり」の開発は大きなマイルストーンを迎えていた。ぼくは30歳になっていた。この頃のぼくは、すっかり「こうのとり」開発に没頭していた。

フライト品製造開始に向けて、設計を全て固めるための最大の関門であるCDR(Critical Design Review、詳細設計審査)を開催していたのだ。
スペースシャトルの引退が発表されてからは、「こうのとり」に対するNASAの期待と注目は大きく、優秀なNASAエンジニアがこぞって審査に参加してきた。もちろん宇宙飛行士も参加していた。

JAXAが提示した設計文書に対して、指摘票(設計結果に対する不備や疑義)が1000件以上提出された。日本が初めて手がけるランデブ宇宙船の開発を、NASAが万全の体制でサポートし、成功させるという本気度がうかがえた。にしても、多過ぎる。その指摘票をひとつひとつ解決していくのに、寝られない1ヶ月を過ごした。先例がなく、どこにも答えがない“初めて“に対し、日米加の3国が一体となって議論して答えを作り出していかなければならなかった。カナダ(加)は、ISSロボットアームを作っていて、キャプチャ方式を初めて採用した「こうのとり」にとっては重要なパートナーだ。

逆に言うと、全てが新鮮で何もかもがエキサイティングな経験だった。世界でまだ誰も成し遂げていない方式の数々を採用したランデブ宇宙船。それらを作り上げていたのだから面白くないはずがない。

アメリカヒューストンにあるNASAジョンソン宇宙センターには年に5〜6回は訪れた。たくさんの課題を抱え、国内で練った解決策を持ってアメリカに渡り、技術論で戦って、また次の課題を持ち帰るというサイクルを繰り返した。いつも10倍以上の人数のアメリカ人に囲まれて技術調整を行っていた。エンジニアとして、全力で宇宙船開発に打ち込んでいた。学ぶことだらけだった。

そして、気がつけば32歳になっていた。
「次に募集があったら応募しよう!」とわくわくして待っていたはずのぼくの夢は、この10年という月日の間に、心の引き出しのずっと奥にしまわれてしまっていた。

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※注:このものがたりで書かれていることは、あくまで個人見解であり、JAXAの見解ではありません


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<著者紹介>

内山 崇

1975年新潟生まれ、埼玉育ち。2000年東京大学大学院修士課程修了、同年IHI(株)入社。2008年からJAXA。2008(~9)年第5期JAXA宇宙飛行士選抜試験ファイナリスト。宇宙船「こうのとり」初号機よりフライトディレクタを務めつつ、新型宇宙船開発に携わる。趣味は、バドミントン、ゴルフ、虫採り(カブクワ)。コントロールの効かない2児を相手に、子育て奮闘中。

Twitter:@HTVFD_Uchiyama