アポロ計画の物語は映画やテレビで繰り返し語られている。だが、その主人公はたいてい宇宙飛行士で、技術者のことはほとんど語られない。
アポロを縁の下で支えたのは、クリエイティブで、頑固で、個性的で、エゴが強く、曲者ぞろいの技術者たちだった。そこには数式と図面と実験だけではなく、駆け引きがあり、喜怒哀楽があり、豊かな人間ドラマがあった。
本連載では、今回より3回にわたって、技術者にスポットライトを当ててアポロの物語を語ることにしよう。
ジョン、ありがとう
1960年代が終わるまでに月に行く 。
そんな壮大なハッタリをケネディー大統領がかました時、NASAはどうやって月に行くのか、具体的なプランを何も持っていなかった。
現代の我々は当然、どうやって月に行ったかを知っている。ざっくりと次のような具合だ。
1969年7月16日。アームストロング、オルドリン、コリンズの3人の宇宙飛行士は巨大なサターンVロケットに乗って地球を旅立った。彼らが乗る円錐形の司令船には、蜘蛛のような形をした月着陸船が連結されていた。
月をまわる軌道に着くと、アームストロングとオルドリンは月着陸船に乗り移り、コリンズは司令船に残った。7月20日、月着陸船は司令船から切り離され、「静かの海」に着陸し、アームストロングが月面に人類最初の一歩を踏み出した。
「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。」
地球で2億人の人がテレビを見て熱狂していた時、月軌道ではコリンズがたったひとり司令船で留守番をしながらこの歴史的な言葉を聞いていた。
一方、本連載の7回から9回までの主役だったフォン・ブラウンは、ヒューストンのVIP室で子供の頃の夢が叶う瞬間を見届けていた。彼はNASAマーシャル飛行センターの長官になっていた。VIP室には他にも錚々たる顔ぶれが揃っていたが、その中に一人、ほとんど無名の技術者がいた。フォン・ブラウンは歓喜に沸き踊るVIPたちをかき分けてその男のところに行き、声をかけた。
「ジョン、ありがとう。」
ジョン・ハウボルトがその男の名だった。つり上がった眉、ギョロッとした目、下がった口角。「頑固」を絵に描いたような顔だった。
この男は何者なのか?
なぜそんな男がVIP室に呼ばれたのか?
なぜフォン・ブラウンはとりわけてこの無名の技術者に感謝を述べたのか?
それは、この男がとてつもなく頑固だったからだ。フォン・ブラウン本人を含めほぼ全ての人が反対していたある奇抜なアイデアを、ハウボルトは岩のような頑固さで押し通した。それがなければ1960年代中の月着陸は明らかに不可能だった。
では、その奇抜なアイデアとは、何だったのだろうか?
どのように月に行くか?
当初、ほとんどの技術者は次のように考えていた。
下の図のように、3人の宇宙飛行士を乗せた宇宙船は、地球を飛び立ったあと、直接月に着陸する。3人仲良く月を探査したあと、宇宙船は月を離陸し、直接地球に帰還する。
この方法は「直接上昇モード」と呼ばれる。シンプルではあるが、重大な問題があった。地球に帰還するための燃料を月面まで持っていかなければいけない点だ。そのせいで宇宙船は重くなる。重い宇宙船を着陸・離陸させるためにはさらに多くの燃料が必要になる。結果、月に着陸する宇宙船は、高さ高さ27メートルもの巨大なものになってしまうのだ。
さらに、そんな巨大な宇宙船を地球から月に打ち上げるには、モンスター級のロケットが必要になる。そのために「ノバ」という、実際にアポロの打ち上げに使われたサターンVよりさらに2.5倍も大きいロケットが構想された。
アポロ宇宙船の設計の中心的立場にいたのは、NASAラングレー研究所の、マックス・フェジットという伝説的な技術者だった。
フェジットは30代でアメリカ初の有人宇宙船であるマーキュリーの設計を主導し、名を上げていた。芸術家肌で、気むずかしく、他人の仕事に満足しないと臆面もなく罵倒した。身長は165 cmとアメリカ人の中ではだいぶ小さかったが、態度と口は誰よりも大きかった。フェジットは自分の正しさに絶対的な自信を持っていた。事実、ほとんどの場合、フェジットの直感は正しかった。だがもちろん、「ほとんど」は「必ず」ではなかった。
フェジットも最初は直接上昇モードを支持していた。芸術家肌の彼はシンプルでエレガントなデザインを愛した。直接着陸し直接帰還するというシンプルさが、彼の直感に響いたのだろう。
地球軌道ランデブー・モード
一方、ロケットの開発を指揮していたフォン・ブラウンは、別の方法で月に行くことを主張した。
まず、宇宙船をいくつかの部品に分解し、別々に地球軌道に打ち上げる。そして地球軌道上で宇宙船を組み立てる。そのあとは直接上昇モードと同じだ。直接月に着陸し、直接帰還する。
この方法では、別々に打ち上げた宇宙船の部品が、地球軌道上で出会い(専門用語で「ランデブー」という)、ドッキングする必要がある。だから「地球軌道ランデブー・モード」と呼ばれた。
このモードだとモンスター級のノバ・ロケットは必要ない。だが代わりにロケットを複数回打ち上げなくてはいけない。しかも、月面に巨大な宇宙船を着陸させなくてはいけないという問題は未解決だった。
当時はこの二つのモード以外に現実的な選択肢があるとは、誰も思っていなかった。どちらを選ぶにしても技術的ハードルは非常に高かった。
お前の数字は嘘だらけだ
そこへ、ある奇抜な「第三のモード」を主張する男が現れた。
ジョン・ハウボルトだった。
彼はフェジットと同じNASAラングレー研究所に勤めていたが、すでに有名人だったフェジットとは異なり、一介の無名な技術者に過ぎなかった。
ハウボルトが主張したのは、アポロを歴史として知っている現在の我々にとっては馴染み深い、こんな方法だった。
下の図にあるように、まず、司令船と月着陸船の二つの宇宙船をセットで打ち上げる。月軌道到着後に両者を分離し、月着陸船は月に着陸する一方、司令船は月軌道で留守番をする。月探査を終えた後、月着陸船は月軌道に戻り司令船とランデブーし、ドッキングする。宇宙飛行士が司令船に乗り移った後、月着陸船は投棄され、司令船のみが地球に帰還する。
月軌道でのランデブーが必要なため、この方法は「月軌道ランデブー・モード」と呼ばれた。
このモードならば、地球に帰還するための燃料は司令船に残していける。だから月着陸船ははるかに小さくて済む。しかもこれならばサターンV・ロケット1機で司令船と月着陸船の両方を打ち上げることができた。直接上昇モードと地球軌道ランデブー・モードの欠点を一度に克服する、画期的なアイデアだった。
しかし、ハウボルトがこのアイデアをプレゼンした時、誰一人としてまともに取り合わなかった。フェジットは冷酷に言い放った。
「お前の数字は嘘だらけだ。」
もちろん、フェジットは理由もなく月軌道ランデブーをこき下ろしたのではない。
当時の技術では、ランデブーのリスクが高すぎたからだ。
もし月着陸船が司令船とのランデブーに失敗したら、月着陸船の宇宙飛行士が地球に帰る術はない。司令船で留守番をしていた宇宙飛行士は、仲間を見捨てて帰るしかなくなる。一方、地球軌道ランデブーならば、ランデブーに失敗しても地球に安全に帰還できる。
そしてランデブーは決して簡単ではない。想像してほしい。月は地球より小さいとはいっても、その表面積はアフリカ大陸よりも広い。アフリカ大陸のどこかにいる二匹のライオンが、GPSもなしに、待ち合わせ通りに出会うなど、できるだろうか?
しかも司令船は時速6000 キロもの猛スピードで飛んでいる。ただ出会うだけではなく、速度も正確に一致させなければドッキングはできない。そしてチャンスは一度しかない。
地球から40万キロも離れた月で、2機の宇宙船が、GPSもなしに、一発で位置と速度をぴったり一致させる。そんなサーカスのような離れ業を成功させなければ、宇宙飛行士は死ぬ。
リスクはあまりにも高いと思われた。ハウボルトはその後何度も月軌道ランデブーを売り込んだが、皆の反応は同じだった。
「クレイジーだ。」
だが、頑固なハウボルトは負けを認める代わりにこう言い捨てた。
「奴らは思っていた通りのアホだ。」
月に行きたいのですか、行きたくないのですか?
「お前の数字は嘘だらけだ」などとお偉いさんに言われたら、普通の技術者ならくじけていただろう。だが、ハウボルトはとてつもなく頑固な技術者だった。彼は批判された点を徹底的に研究した。研究すればするほど、月軌道ランデブーが最良なモードであるというハウボルトの確信は余計に深まった。
そこでハウボルトは月軌道ランデブーの布教を根気強く続ける一方、上司の頭を何階層も飛び越してNASA副長官のロバート・シーマンスに直接手紙を書いた。もちろん普通なら許されることではなかった。その手紙は、聖書から引用したこんな言葉で始まっていた。
「荒野に呼ばわる者の声として、いくつかの考えを伝えさせてください。」
そして情熱的に月軌道ランデブーの利点を説き、こんな言葉で再考を促した。
「月に行きたいのですか、行きたくないのですか?」
この手紙はNASA上層部に回覧された。ある高官はこうコメントした。
「ハウボルト博士は組織のルールを逸脱しているとはいえ、彼の主張の多くの点に同意せざるをえない。」
この手紙をきっかけに、NASA本部は、少しずつ動き出した。
その頃、ラングレー研究所内では、フェジットらによるアポロ宇宙船の設計が多くの問題に直面していた。
どうすれば1台の宇宙船に月着陸と地球帰還の両方の機能を詰め込めるのか?
巨大な宇宙船が月に着陸するときに、どうやって下方視界を確保するのか?
もし月軌道ランデブーを採用すれば、これらの問題はすべてエレガントに解決できた。しかもハウボルトの研究により、ランデブーの難易度も思ったほどには高くはないことが分かってきた。ラングレー研究所内ではだんだんと月軌道ランデブーに「改宗」するものが現れだした。皆、月に行きたかったのだ。
そして強硬に直接上昇モードを主張していたフェジットも、いつの間にかこっそりと「改宗」した。もちろん、エゴの強いフェジットは自分の間違いを決して認めなかったし、ハウボルトの業績を認めることもしなかった。数年後にパーティーで二人が顔を合わせた時、フェジットは調子よくこう言い放った。
「月軌道ランデブーが一番いいことなんて、誰でも5分考えればすぐに分かるぜ。」
ヒューストンへの「島流し」
「は?ヒューストン?誰がそんなクソ田舎に行くか!」
フェジットがそのニュースを聞いた時、そんな風に怒鳴っただろう。フェジットたちの宇宙タスク・グループがラングレー研究所から独立してテキサス州ヒューストンに移転し、新しいNASAセンターになる。そんな指示が、突如としてNASA本部から降ってきたのだ。
日本の感覚でいえば、テキサスは「亜熱帯にある北海道」といったイメージだろう。灼熱。湿気。地の果てまで続く牧場。牛。牛。牛。牛。ヒューストンは大都市だが、ラングレー研究所のあるバージニアとは文化が全く違う。ほとんど島流しのようなものだった。
そうして 700人の技術者が渋々とヒューストン郊外の広大な空き地に移転してできたのが、NASA有人宇宙飛行センターだった。(後にジョンソン宇宙センターと改称された。)そしてフェジットは新センターの中心メンバーとなった。
一方、ハウボルトはヒューストンに行かなかった。彼に声がかからなかったのか、あるいは彼自身が頑固に拒否したのかはわからない。どちらにしても、ラングレーに残されたハウボルトはモード選択の議論からも取り残された。しかし彼のアイデアは生き残った。ヒューストン移転組はすっかり月軌道ランデブーに「改宗」していた。
だが、まだ月軌道ランデブーがNASA全体に受け入れられたわけではなかった。最後の強敵は、あの男だった。
フォン・ブラウンだった。彼と、彼が率いるNASAマーシャル飛行センターは地球軌道ランデブー・モードに固執していた。その理由のひとつは政治的なものだった。一回のミッションで複数機のロケットが必要な地球軌道ランデブーに対し、月軌道ランデブーならば一機で済んでしまう。それはロケットを担当するマーシャル飛行センターの役割が低下することを意味した。モード選択は、センター間の主導権争いでもあったのだ。
1962年4月 、引っ越しを終えたばかりのヒューストンの主要メンバーが、アラバマ州にあるマーシャル飛行センターに出張した。そこにハウボルトは呼ばれなかった。代わりに、かつてはハウボルトを頭ごなしに否定したフェジットたちが、月軌道ランデブーの利点を丸一日かけてプレゼンした。
ミーティングが終わった時、会議室は長い沈黙に包まれた。フェジットたちの放ったジャブが、マーシャルの技術者に利いているようだった。
だが、それでもマーシャルの技術者たちは地球軌道ランデブーに固執した。1962年6月、今度はNASA本部のメンバーをマーシャル飛行センターに迎えてミーティングが行われた。ここでもフォン・ブラウンの部下の技術者たちは地球軌道ランデブーを必死に守ろうとした。
フォン・ブラウンは黙ってそれを聞いていた。彼は何を考えていたのだろうか?
もしかしたら、子供の頃の夢を思い出していたのかもしれない。13歳の誕生日に母親にもらった望遠鏡で夢中になって眺めた月。そこへ人類を送り込むことこそが、彼が見続けた夢だった。彼は月に行きたかった。誰よりも行きたかった。
聡明なフォン・ブラウンは、月軌道ランデブーが優れていることはすでに理解していた。だが、もし月軌道ランデブーが選ばれたら、自分のセンターが主導権を失い、予算が減り、最悪の場合は部下をレイオフしなくてはならないかもしれない。それでもやはり、彼は自分の夢を叶えたかった。それはある意味、究極のエゴだった。
6時間に及んだミーティングの最後にフォン・ブラウンは突然立ち上がり、部下たちに唐突に告げた。
「ジェントルマン、今日の議論はとても面白かったし、我々は非常に良い仕事をした。地球軌道ランデブーは実現可能だ。だが、1960年代終わりまでに月着陸を成功させる可能性がもっとも高いのは月軌道ランデブーだ。これをセンターの方針にしたい。」
最後はフォン・ブラウンの独断だった。これで全ては決着した。そしてアポロ計画の主導権は、ヒューストンに渡ることになった。
ハウボルトの頑固で孤独な戦いは、こうして実を結んだ。しかし皮肉なことに、月軌道ランデブーがNASA全体の方針になるにつれ、この一介の技術者の名は忘れられていった。ハウボルトはミーティングに呼ばれることもなく、ミーティングがあることすら知らされず、月軌道ランデブーは語られてもハウボルトの名は語られなかった。親の名を知らぬ愛娘が立派に成長していくのを、影からこっそり見ることしかできない父の気持ちは、いかなるものだろうか。
フォン・ブラウンがどうしてハウボルトを知ったのかは分からない。彼もフェジットに負けず劣らず強いエゴを持っていたが、ドイツ貴族の生まれのためか、礼儀や義理を重んじる人でもあった。そしてハウボルトは間違いなく、フォン・ブラウンの夢を叶えた恩人の一人だった。
だから7年後に人類が初めて月に降りたったとき、歓声に沸くヒューストンのVIP室で、フォン・ブラウンはわざわざ頑固な無名の技術者のところへ行ってこう言ったのだった。
「ジョン、ありがとう。」
(つづく)
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〈著者プロフィール〉
小野 雅裕
大阪生まれ、東京育ち。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。2012年マサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科博士課程および同技術政策プログラム修士課程終了。慶應義塾大学理工学部助教を経て、現在NASAジェット推進所に研究者として勤務。
2014年に、MIT留学からNASA JPL転職までの経験を綴った著書『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』を刊行。