宇宙飛行士は、アストロノート、コスモノート、タイコノートなど国によって様々な呼ばれ方をしており、現在では、国や地域ごとに候補者の選抜が行われ、2年程度の宇宙飛行士訓練を受け、宇宙飛行士として認定される。そして、ミッションにアサインされて初めて宇宙ミッションに挑むことができる。選ばれし宇宙飛行士が、さらに厳しい訓練を経て、国を代表し宇宙ミッションに挑む。
これが、宇宙飛行士が宇宙へ飛び立つプロセスだ。
このプロセスはいつどのように生み出されていったのかを知るため、宇宙飛行士が生まれた時代を見てみよう。
いまからさかのぼること60余年、米ソ(旧ソビエト連邦(以降、旧ソ連)、現ロシア)の宇宙開発競争(スペースレース)が行われていた。軍事用途にも応用できる宇宙技術は、国家の科学技術力を象徴する指標であり、この時代では一番の国威発揚として使われていた。
そんな中、宇宙への扉を世界で初めて開いたのは、旧ソ連だった。
1957年10月4日、旧ソ連が秘密裏に進めていた人類初の人工衛星「スプートニク1号」が、打ち上げに成功したのだ。
米国こそが最高の科学技術、軍事力をもっていると自負していた米国民は、パニックに陥った。これが「スプートニク・ショック」と呼ばれる歴史の転換点だ。
旧ソ連の打ち上げた人工衛星が、米国領土の上空を周回飛行することを許し、それをどうすることもできない。米国民の自尊心はガタガタにされた。そこから米国の怒涛の巻き返しが始まる。
「スプートニク・ショック」後、米国は一瞬で変わった。翌1958年に、これまで陸海空軍で別々に縄張り争いをしながら行っていた宇宙開発部門を統合し、NASA(アメリカ航空宇宙局)を設立した。
その翌年、米国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」のもと、陸・海・空軍・海兵隊から選りすぐりのテストパイロット7名を宇宙飛行士として選抜した。この7名は、マーキュリー・セブン(または、オリジナル・セブン)と呼ばれ、映画「ライトスタッフ」にも描かれている。
急ピッチに立て直しを図る米国をよそに、人類で初めて宇宙飛行を行ったのは、またしても旧ソ連だった。
「スプートニク・ショック」から、たったの3年半後、1961年4月12日のことだった。バイコヌール宇宙基地からボストーク1号で打ち上げられた軍人ユーリ・ガガーリンは、地球を1周し、大気圏再突入後、無事帰還を果たした。ガガーリンの108分の宇宙飛行は、米国を始めとして世界中に衝撃を与えた。
米国は必死だった。
それを追うこと23日後、1961年5月5日に、マーキュリー・セブンの1人、海軍出身のアラン・シェパード(※注釈①)が達成したのは、弾道飛行による宇宙飛行だった。地球周回軌道にのる宇宙飛行と、軌道には到達しない弾道飛行という大きな差があった。
マーキュリー6号に搭乗した海兵隊出身のジョン・グレン(※注釈②)が初めて地球周回軌道での宇宙飛行に成功したのは、さらに遅れること7ヶ月半後の1962年2月20日のことだった。
※注釈①
アラン・シェパード のちにアポロ14号の船長として、月面に降り立った。月面に降り立った人類としては最高齢の47歳。月面でゴルフをするパフォーマンスを行った。
※注釈②
ジョン・グレン この後、実業家や政治家に転身するも、1998年にスペースシャトルディスカバリー号により77歳で再び宇宙飛行をし、宇宙飛行の最高齢を記録。
完全に後塵を拝した米国は、国家の威信をかけて巻き返しを図る。
アラン・シェパードによる弾道飛行達成の20日後の1961年5月25日に、ジョン・F・ケネディ大統領は、「10年以内に月に人を送り、無事に帰還させる」というアポロ計画の承認を、上下両院合同会議の席で求めた。こうして1960年代に月面に米国宇宙飛行士を立たせることを宣言へと至った。
米国が宇宙開発競争で後れをとるわけにはいかないという強い意志があった。そして、アポロ計画では12人のアメリカ人を月面に送りこみ、宇宙開発競争は米国の勝利で幕を下ろした。
宇宙開発競争の時代に生まれ、人類が足を踏み入れたことがなかった宇宙、音速の壁を超えた先にある未知なる世界、その未踏の領域に、国の看板を背負って立ち向かった英雄が、宇宙飛行士だった。危険と隣り合わせの挑戦をしながらも、生きて帰ってくることが最大の使命だった。
ピンチも数多くあった。
“最も成功した失敗”と呼ばれる「アポロ13号」(1970年4月11~17日)ミッションでは、機械船の酸素タンクの爆発事故により、月面着陸ミッションの中止を余儀なくされた。
しかし、ミッションはそこで終わりではない。
“宇宙飛行士を生きて地球に戻す”という次なるミッションが立ち上がる。幾多の深刻な危機に直面するもそれらをすべて乗り越え、飛行士全員を無事に地球に還すことに成功した。ここで活躍したのは宇宙船の設計を知り尽くす地上管制官だ。このように地上管制官たちの助けが大きく生きる状況もあれば、飛行士自身の判断力により危機を脱しなければならないこともある。
月面に人類を送り込むアポロ計画に向け、段階的に技術実証を積み上げていったジェミニ計画(1961-66年)。「ジェミニ8号」(1966年)は、史上初となる2機の宇宙機による軌道上でのドッキングを実証するミッションであった。2018年公開の映画「ファースト・マン」の冒頭シーンでも登場した。
「ジェミニ8号」の船長はニール・アームストロング、搭乗員飛行士はデイヴィッド・スコット。2人とものちのアポロ計画で船長として月面に降り立った人物だ。
タイタン2型ロケットにより打ち上げられたジェミニ8号船内で、2人は制御盤の向こうの小さな窓から見える宇宙の暗がりに思わず息をのんだ。先人の飛行士たちが「宇宙の美しさは言葉にできない」と言っていた意味がすぐにわかった。
地球周回の3周目に、レーダーがアジェナ(標的衛星)を捉えた。アジェナは、ジェミニ8号の打ち上げの101分前に打ち上げられていた。4周目には、前方に目視でアジェナを捉えることができ、しだいに距離をつめていった。相対距離50メートルまで近づくとそこで距離を保ち、アジェナが正常であることを確認し、最終アプローチを実行した。ドッキング作業のほとんどはニールが担当し、駐車場に自分の車を停めるかのようにあっさりとドッキングを完了してみせた。
デイヴィッドはドッキング後の作業にとりかかっていた。
アジェナの制御システムで一体化した二つの宇宙船の操縦を開始してまもなく、宇宙船がゆっくりと回転していることに気づいた。ジェミニの燃料を節約するために、アジェナのエンジンで操縦していたことから、問題はアジェナの制御システムで発生したと2人は考えた。ニールの指示で、アジェナの制御システムのスイッチを切ると、回転は止まった。しかし、ジェミニのシステムだけで操縦している状態にもかかわらず、数分後にまた回転が始まる。アジェナの制御スイッチをオンオフしても回転は速くなるばかり。ニールは手動操縦に切り替えたが、回転を止められない。制御盤を見ると、ジェミニの制御エンジンの一基の燃料が13%まで落ちていた。もうアジェナを切り離さなければならない。
選択肢はなかった。デイヴィッドは切り離しボタンを押し、アジェナを切り離した。
しかし、ジェミニの船体は、回転が止まるどころか、もっと激しく回転し始めたのだ。
問題はジェミニの方だったのだ!
ニールの操縦レバーもデイヴィッドの操縦レバーもきかなかった。回転速度は毎秒一回転にまで上がり、ジェット戦闘機のきりもみ状態よりも速い。ジェミニがほとんど操縦不能になる中、ニールは「再突入システム」に賭けた。目を閉じた状態でも再突入システムを正しく作動できる訓練を受けていたが、毎秒一回転させられ失神しそうな状況でやるのは至難の業だ。しかし、ニールはやってのける。
再突入システムの作動に成功したとたん、回転が落ち始め、30秒もかからず完全に停止した。20分間の高速回転状態から解放された。
しかし、安心するのはまだ早い。
再突入システムを稼働してしまった宇宙船は、ただちに、地球へ帰還しなければならない。しかも、異常を抱えたジェミニで、だ。
ニールは、16基あるエンジンを一基ずつ点検しはじめ、8基目がおかしくなっていることに気づいた。
それと並行して、デイヴィッドは、追跡ステーション経由で地上管制官と交信をしながら、再突入のための新しい飛行プランを立て、ジェミニに打ち込まなければならなかった。ジェミニは着水用にしか設計されていないため、誤って地面に着陸することになったら、緊急脱出をしなければならない。
予備の着水点に降りるのは初めてとなる。
予備の着水点は、予定の着水点から一万キロ以上離れた、日本の沖縄東方800キロメートル、横須賀南方1000キロメートルのエリアだった。天気予報によると、快晴で微風、波の高さは1メートルという報告がヒューストンからされた。合わせて酔い止めの薬と水分を充分にとるよう指示があったが、波の高さから判断し、二人とも薬は飲まなかった。
飛行開始から10時間4分後に逆噴射ロケットが点火するようにセットした。
通常なら再突入は宇宙船が追跡ステーションから見える昼間に行う。そうすれば、管制センターからもカウントダウンし、例え自動点火ができなくても手動で点火が可能だからだ。それであれば、管制センターが再突入をモニターし、たとえロケットの一基が点火しなかった場合でも、再突入の調整をクルーに指示することができる。
しかし、予備の軌道は、逆噴射ロケットの点火タイミングが中央アフリカ上空だったため、それができなかった。時刻をセットすると、あとやれることは、祈ることだけだった。
再突入は順調だった。熱シールドの一部がはがれ、炎を上げながら落下するのが小窓から見えた。ヒマラヤ山脈がぐんぐん迫ってくる。ニールがコクピットミラーを動かし、窓の景色を確認した。どこかはわからないが、下には海が広がっていることが確認できた。よし、緊急脱出は不要だ。
着水では、思っていた以上の衝撃で海面に叩きつけられることとなった。そして、救助隊を待つ間、船体は上下に激しく揺れた。何かがおかしい。波の高さに加え、”うねりが6メートル”という情報が抜け落ちていたのだ。管制官から言われたとおり、酔い止め薬を飲んでおくべきだったが、後悔しても時既に遅し。二人はコクピットに座ったまま、ほぼ同時に吐くことになった。
着水から3時間後、宇宙船から引き上げられた二人は、艦長室で医官による検査を受けた。何の異常も認められず、11時間何も食べられず腹ぺこだった2人は、出された東洋風のフルコースを片っ端から平らげた。
ニールもデイヴィッドも2人とも初飛行だった。
初飛行にして、メインミッションである別々に打ち上げた2つの宇宙船のドッキングをいとも簡単に成功させた。そのうえ、ドッキング後に発生した致命的な機器故障による、危機的状況から脱し、緊急帰還を行い、奇跡の生還を果たした。
ニールが最後の手段とも言える再突入システムの稼働に踏み切れなかったら?
ニールが高速回転で失神しそうな状態で、システムの稼働に失敗していたら?
デイヴィッドが手動による再突入プランのインプットを間違えていたら?
最良の選択・判断を行い、強靭な体力と精神力をもって危機に対処した結果、生きて帰ることができた。ひとつでも間違えば、最悪の結末につながっていただろう。緊急事態の状況下では、地上管制官どころか、すぐ近くにいるバディと連絡すら取れないこともありうる。そのような中で、瞬時の判断が、自らの命そしてバディの命を救う。
宇宙飛行とは、常に死に直結しかねない不測の事態と隣り合わせである。
宇宙という究極の環境に科学技術で挑戦するのが宇宙開発であり、それを理解した上でリスクをコントロールして挑み続けるのが宇宙飛行士だ。不測の事態に見舞われたとしても、万策を尽くして生きて帰ってくる。それが、宇宙飛行士の使命だ。
1957年に初めて人類が宇宙に足を踏み入れてから60年余り。
時代は、宇宙開発競争から、国際協力による宇宙開発に変わっていった。
その多くは米国・ロシアの有人ロケットによってではあるものの、現在では、41か国もの国の人々が宇宙飛行を達成している。宇宙飛行士にもグローバル化の波が押し寄せている。
数々の挑戦や失敗から多くのことを学びながら、人類は宇宙へ行くだけでなく、ISSプログラムでは最長1年もの間宇宙に滞在することができるようになった。ISSでは、ロシア人とアメリカ人が有人宇宙基地で寝食を共にし、20年近く代わる代わる宇宙飛行士が滞在し続けている。
これまで宇宙飛行を行ったのは、たったの562人(2019年4月18日時点)だ。
世界の人口は77億人。仮に宇宙飛行をした人が全員現在も生きていると仮定しても、宇宙飛行は1300万人に1人にだけ許された特権だ。宇宙飛行士は非常に特別な存在であることは今も昔も変わっていない。
危険と隣り合わせの中で、与えられた宇宙ミッションを遂行し、万が一危機的状況に陥ったとしても、時々刻々と変わっていく状況の中で、総合的に正しい判断を重ね、高いプレッシャー下で危機を乗り切り、地球に帰還する。時代が変わっても、宇宙飛行士の使命は変わっていない。その使命を果たすことができる「ライトスタッフ」(=宇宙飛行士として備えるべき資質)を備えていることが必要だ。
次回は本章に戻り、宇宙飛行士選抜試験の最終に残ったファイナリスト10人のものがたりをお送りします
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<著者紹介>
内山 崇
1975年新潟生まれ、埼玉育ち。2000年東京大学大学院修士課程修了、同年IHI(株)入社。2008年からJAXA。2008(~9)年第5期JAXA宇宙飛行士選抜試験ファイナリスト。宇宙船「こうのとり」初号機よりフライトディレクタを務めつつ、新型宇宙船開発に携わる。趣味は、バドミントン、ゴルフ、虫採り(カブクワ)。コントロールの効かない2児を相手に、子育て奮闘中。
Twitter:@HTVFD_Uchiyama