青い蛍
青い夕日が、赤い山の向うに落ちようとしていた。火星一の大都市であるニュー・ムンバイの、透明な半球状のドームに覆われたアテン広場を忙しく行き交う仕事帰りの人々も、ふと足をとめて夕日の美しさにため息を漏らした。
そんな人々の群れを避けるように、所在なげに広場の隅に立って誰かを待っている一人の男がいた。彼の手足は他の人と比べて際立って太く、背丈は低くて、一目で彼が地球生まれであることが分かった。
彼は名をケントと言った。火星に移住して三十年が経っていた。もう見慣れたはずなのに、この星の青い夕日を見ると、いまだに彼は誰も知り合いのいない宴に来てしまった時のような居心地の悪さを感じた。逃げるように目を時計に移した。息子の学校はもう一時間も前に終わっているはずだった。
(ジョージは一体どこで油を売っているんだ…。)
待ち呆けているうちに日は沈み、残光もだんだんと薄らいでいった。やがて西の空に、青く輝く一番星が出た。それはケントの故郷の、地球だった。夕日の強烈な青とは対照的な、蛍の光のように儚げなその青は、小さな安堵と共に、苦しいほどの郷愁を彼の胸に呼び覚ました。
若い頃、彼は遠い世界に漠然とした憧れと野心を抱き、偶然見つけた片道移民の募集に飛びついて、飽きた女を棄てるように故郷を捨てた。しかし歳を重ね、磨り減った野心よりも望郷の念が大きくなった頃には、家族や、仕事や、財産などといった現実的な要因が、鎖のように彼をこの赤い寂莫とした大地に縛り付けていた。彼にはもう、その鎖を断ち切って逃げるほどの勢いも無謀さも残っていなかった。だからこうして遠い故郷を眺めながら、もしあの青の中に留まっていたなら、などとメランコリックな想像に耽るのだった…
「パパ、おまたせっ!」
突然、背中を突き飛ばされて振り返ると、声変わりをし、ケントを見下ろすほどに背の高くなったジョージが、まだ少年のままの人懐こさでケラケラと笑っていた。小さな頃のジョージは地球っ子と全く変わりなかったのだが、少年の華奢な手足は太くなることなく長さだけが伸び、胴も肩幅が広がることなく背だけが伸びて、今では典型的な火星民の体型になっていた。
息子の顔を見ると、ケントは郷愁と待たされた不満を手際よく追い払い、優しい父親の顔に素早く切り替えた。そして、一方の手で息子の背中を抱き寄せると、もう一方の手で西の空を指差して、努めて快活な声で、
「ほら、あの星、分かるか。地球だよ!」
と言った。ジョージはそれに合わせるように、大げさな抑揚をつけて、
「ワオ!キレイだね!」と応えた。
その言葉はしかし、ケントの心には、トンネルの中のこだまのように空虚に響いた。訛りのない標準語で発せられた「キレイ」という平凡な言葉のどこにも、彼があの青い星に対して抱く感情の深みは含まれていないと感じたからだった。彼は息子の背中を抱く手を力なく離した。火星で生まれ育った息子に理解しろという方が無理なのは分かっている。だが、愛する者と感情の最も深い部分を共有できないもどかしさは、余計にケントの孤独を深めるのだった。
ジョージはそんな父親の感情の小さなさざなみに気付くことなく、構わずに続けた。
「じゃあさ、地球のウマいスナックを買って帰ろうよ。知ってる?すぐそこにタコヤキの店ができたんだぜ。」
「お、タコヤキはパパも子供の頃に大好物だったぞ。でもどうせ肉は本物のタコじゃなくて、カイコだろ?」
それを聞いてジョージはすこし不満げな顔になり、肩をすくめた。
親子は広場を出ると、迷路のような地下路地に入っていった。この街では、隣接する建物は全て地下で繋がっていて、アリの巣のように複雑な地下街のネットワークを形成していた。大気が薄く、宇宙服なしでは屋外を歩けない火星に街を築いた移民たちは、こうして移動の自由を地下に求めたのだった。
とりわけアテン広場のあるオールドタウン一帯の地下路地は、狭くて天井が低いうえに、いつも肌と肌が触れ合うほどに混みあっていて、人の汗の匂いと、様々な食べ物の匂いが、不快に混ざり合い充満していた。長身の火星民たちの人混みにケントはすっかり埋もれてしまうので、彼はこの場所が好きではなかった。一方、ジョージは慣れた足取りで、泳ぐように人をかき分けて路地を進んでいった。ケントは息子の背中についていくのに必死だった。
タコヤキ屋はジョージの言うとおり、大変な繁盛だった。店の奥のキッチンでは、腕が何本もあるタコのような形のバイオボットたちが、くるくると手際よくタコヤキを作っているのが見えた。この星ではタコが入っているからではなく、タコが作っているからタコヤキというのか、などと皮肉な笑いを心に浮かべていると、東洋系女性の姿をした接客用のバイオボットが「お客様」と唐突に声をかけてケントの思考に割り込み、ショウユかソースか、マヨネーズはいるか、と注文をテキパキと取った。何かが違うな、とケントは思わずにはいられなかった。
親子は一ダースのタコヤキを買ったのちアテン広場に戻り、その地下にある駐車場へと降りていった。ジョージは歩きながらパックを開け、丸々一個を口に放り込み、熱さに悶えながら、ウマイ、ウマイと繰り返した。ケントはそんな息子の無邪気さを微笑ましく眺めていた。
その時ふと、ケントの脳裏を素早く横切る何かがあり、あっ、と声を出しそうになった。それは、この光景を過去にどこかで見たことがあるという確信だった。どこでそれを見たのか…そうだ、あれは自分が子供の頃…何かの帰り道…赤い夕日が記憶の中の風景の全てを包んでいた。彼はウマイ、ウマイと言いながらタコヤキをほおばった…そしてその横で、ケントの父が優しく微笑んでいた。
ケントはさらに記憶の糸を手繰り寄せ、優しかった父の笑顔をもっと鮮明に思い出そうとした。しかし、記憶はピントがずれた写真のようで、いくら近づいても決して明瞭にはならなかった。空しい努力を続けていると突然、父の顔の上に、ある非常に鮮明な映像が、マスクを被せるように立ち現れた。それは父の死に顔だった。今度は必死に父から死に顔のマスクを取り外そうとしたが、どうしてもできなかった。夕焼けや、タコヤキや、繋いだ父の手の大きさや、彼のおおらかな笑い声はそのままなのに、顔だけが火星の夕日のように青く冷たい死に顔だった。
こんなことが今までに何度かあった。理由は分かっていた。霧が山を隠すように、ケントの心に染み付いた後悔が美しい記憶を覆ってしまっているのだった。父にも母にも、地球を出て以来、一度も会わずじまいだった。死に目にも会えなかった。テレプレゼンス越しに遠隔参列した葬式の間は、気持ちが空っぽで涙が一粒も落ちなかった。それなのに今になって涙が溢れそうになった。それをぐっと堪えると、今度は胸が酸っぱい後悔で満たされた…
「パパも食えよ。」
ジョージが目の前にタコヤキを差し出した。回想を中断させられたケントは、暫しぼうっと、タコヤキから湯気が立ちカツオブシが踊る様を見た。あの時に食べたタコヤキと全く同じだった。その球の中に、あの美しい幼年期の思い出が、ぼやけることなく全てすっぽりと包まれている気がした。霧の向うにやっと手が届きそうに思えた。期待と共にケントはタコヤキをひとつスティックで拾いあげ、ほおばった。
しかし、カイコ肉は歯ごたえがなく、地球のものとは似ても似つかない、全く期待外れの味だった。夢から覚めるように思い出の中の風景が霞んでいった。今度こそ捕まえられると思った青い蛍は、また網をすりぬけて、手の届かないところへと逃げていった。
親子が車に乗ってドアを閉めると、気密を確認したという自動音声が流れ、音もなく走り出した。車はオールドタウンの南西エアロックから屋外へ出ると、スピードを上げ、赤茶色の路面をヘッドライトで照らしながら進んだ。空はすっかり暗くなり、多くの星が輝いていた。車が向かう先の西の低い空では、青く小さな星が、黒い山影に今にも沈もうとしていた。
※この作品は、2015/03/05 毎日新聞関西版夕刊『掌の物語』のコーナーに掲載された『青い蛍』のロングバージョンです。
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〈著者プロフィール〉
小野 雅裕
大阪生まれ、東京育ち。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科卒業。2012年マサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科博士課程および同技術政策プログラム修士課程終了。慶應義塾大学理工学部助教を経て、現在NASAジェット推進所に研究者として勤務。
2014年に、MIT留学からNASA JPL転職までの経験を綴った著書『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』を刊行。
本連載はこの作品の続きとなるJPLでの宇宙開発の日常が描かれています。