「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!
『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕さんがひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕さんの書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。
1969年7月20日、ヒューストン時間15:06
アポロ11号の月着陸船が司令船から切り離されてから、約3時間が過ぎていた。オルドリンはコンピューターのPROCEEDボタンを押し、「点火」と機械的に言った。月着陸船の降下エンジンが火を吹き、着陸に向けて減速を始めた。足元たった2メートル下で火を吹くエンジンの音は真空の帳に遮られ、アームストロングとオルドリンの耳には全く聞こえなかった。月面を背にして飛ぶ月着陸船の窓からは、漆黒の宇宙に浮かぶ青く美しい地球が見えていた。その時……
ビー、ビー、ビー、ビー……
かん高い警報音がヘルメットの中に鳴り響き、コンピューターのPROGと書かれたランプが黄色く点滅した。
「プログラム・アラーム」
アームストロングが冷静な声で言った。オルドリンはコンピューターのキーを叩き、エラーの原因を問い合わせた。コンピューターは無機質な4桁の数字を返した。
「1202」
オルドリンはヒューストンにその数字を告げた。訓練で経験したことのないエラーだった。
「1202」
オルドリンは繰り返した。ヒューストンからの返事はない。アームストロングが口を開いた。
「1202プログラム・アラームの意味を教えてくれ」
声に苛立ちが混じった。無数のスイッチが並ぶ計器板の真ん中に“ABORT”と書かれた赤い大きなボタンがあった。これを押せば緊急退避プログラムが作動し、降下ステージが投棄され、上昇ステージのエンジンが船を安全な月軌道に押し上げる。それはつまり、月着陸の失敗を意味した。
テレビで見守る2億人が息をのんだ。「なんだ、1202って……?」人々はささやき合っただろう。誰にもわからなかった。VIPルームにいたフォン・ブラウンやハウボルトにも分からなかった。何かの異常事態が起きていることは明らかだったが、それは一体何なのか? どれほど深刻なのか? 復旧可能なのか? そして月着陸は可能なのだろうか?
「1202」の意味を知る者は、おそらく世界に数人しかいなかっただろう。その一人が、ヒューストンから2500㎞離れたマサチューセッツ工科大学(MIT)の一室にいた、本章の二人目の主役、マーガレット・ハミルトンだった。
なぜ彼女は知っていたのだろうか?
<以前の特別連載はこちら>
- 01 宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─
- 02 幼年期の終わり
- 03 ロケットの父の挫折
- 04 フォン・ブラウン〜宇宙時代のファウスト
- 05 ナチスの欲したロケット
- 06 ヒトラーの目に灯った火
- 07 悲しきロケット
- 08 宇宙を目指して海を渡る
- 09 鎖に繋がれたアメリカン・ドリーム
- 10 セルゲイ・コロリョフ〜ソ連のファウスト博士
- 11 スプートニクは歌う
- 12 60日さえあれば
- 13 NASAの誕生、そして月へ
- 14 最初のフロンティア
- 15 小さな一歩
- 16 嘘だらけの数字
- 17 無名の技術者の反抗
- 18 究極のエゴ
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『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』の元となった人気連載、『一千億分の八』をイッキ読みしたい方はこちらから
【第1回】〈一千億分の八〉はじめに
【第2回】〈一千億分の八〉ガンジス川から太陽系の果てへ
【第3回】〈一千億分の八〉地球をサッカーボールの大きさに縮めると、太陽系の果てはどこにある?
【第4回】〈一千億分の八〉すべてはSFから始まった〜「ロケットの父」が愛読したSF小説とは?
【第5回】〈一千億分の八〉なぜロケットは飛ぶのか?〜宇宙工学最初のブレイクスルーとは
【第6回】〈一千億分の八〉なぜロケットは巨大なのか?ロケット方程式に隠された美しい秘密
【第7回】〈一千億分の八〉フォン・ブラウン〜悪魔の力を借りて夢を叶えた技術者
【第8回】〈一千億分の八〉ロケットはなぜまっすぐ飛ぶのか?V-2のブレイクスルー、誘導制御システムの仕組み
【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」
【第10回】〈一千億分の八〉宇宙行き切符はどこまで安くなるか?〜2101年宇宙の旅
【第11回】〈一千億分の八〉月軌道ランデブー:無名技術者が編み出した「月への行き方」
【第12回】〈一千億分の八〉アポロを月に導いた数式
【第13回】〈一千億分の八〉アポロ11号の危機を救った女性プログラマー、マーガレット・ハミルトン
【第14回】〈一千億分の八〉月探査全史〜神話から月面都市まで
【第15回】〈一千億分の八〉人類の火星観を覆したのは一枚の「ぬり絵」だった
【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
【第17回】〈一千億分の八〉火星ローバーと僕〜赤い大地の夢の轍
【第18回】〈一千億分の八〉火星植民に潜む生物汚染のリスク
〈著者プロフィール〉
小野雅裕(おの まさひろ)
NASA の中核研究機関であるJPL(Jet Propulsion Laboratory=ジェット推進研究所)で、火星探査ロボットの開発をリードしている気鋭の日本人。1982 年大阪生まれ、東京育ち。2005 年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9 月よりマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学。2012 年に同航空宇宙工学科博士課程および技術政策プログラム修士課程修了。2012 年4 月より2013 年3 月まで、慶応義塾大学理工学部の助教として、学生を指導する傍ら、航空宇宙とスマートグリッドの制御を研究。2013 年5 月よりアメリカ航空宇宙局 (NASA) ジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)で勤務。2016年よりミーちゃんのパパ。主な著書は、『宇宙を目指して海を渡る』(東洋経済新報社)。現在は2020 年打ち上げ予定のNASA 火星探査計画『マーズ2020 ローバー』の自動運転ソフトウェアの開発に携わる他、将来の探査機の自律化に向けた様々な研究を行なっている。阪神ファン。好物はたくあん。