第5章 残酷な分岐点② | 『宇宙兄弟』公式サイト

第5章 残酷な分岐点②

2020.10.13
text by:編集部コルク
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祭りのあと

2次のA班、UN16のメーリングリストは、合格発表が近づくとざわついてきた。

この2009年1月~2月で交わされたメールは1755通。1日に平均すると30通だ。常に何かしら宇宙に関係する話題で盛り上がっていた。

平行して行われていたカナダ宇宙機関(CSA)の選抜試験の情報などを得ては、

「17年ぶりの募集に5000人超。日本よりも激しい競争率!」

「バスのような箱に入れられプールに落とされ、そこから脱出する厳しい試験項目がある!」

など、各国の選抜方法に特色があって面白いなどと盛り上がったりした。

合格発表が近づいてくると、メールでのやりとりからも、ファイナリスト10人の中でも最大派閥だった4人(金井、大作、国松、ぼく)を輩出しているUN16メンバーから誰か選ばれるだろうという期待とともに、応援組にまわった12人も一緒になって緊張していることが伝わってくるようになった。

ぼくは、試験により休んでいた2週間超を取り戻すべく忙しくしていたため、この待っている期間には、緊張している暇がなかった。そのことは幸いだった。

14時過ぎに選抜結果のプレスリリースが出された。

期待に反し、UN16メンバーからは選ばれず、という結果だった。

補欠2名がUN16だったことは、のちに報告はされたものの、UN16メンバーの落胆は大きかった。4人にかける言葉を探すのは難しかったはずだが、それにもかかわらず、4人の健闘を称えるメールがたくさん届いた。

「UN16代表として精一杯戦ってくれてありがとう。おつかれさま。」
「UN16で良かった。このメンバーと知り合えたことは人生の財産です。」 「UN16のつながりは、どんなものにも代えがたい大切なきずなです。」

UN16の気持ちを一番的確に表していたのは、仙君さんからの以下のメッセージだろう。

「発表をみて、自分でもびっくりするくらいぽかーんとしてしまいました。 このUN16メールやオフ会を通じて、自分も一緒に最終試験を受けているような気になっていたんだな、というのが分かりました。そんな雰囲気にしてくれた4人に感謝です。そして、この試験を通じて仲間と知り合えたことに感謝したいです。」

UN16メンバーは最終試験を一緒に戦っていたのだ。

ぼくは翌日の昼過ぎになってようやく、UN16メンバー宛にメールを出すことができた。

「無念です。予想していたよりも、ショックが大きいです。」

ここでは、ぼくの本音を吐露した。

役員面接でのやり取り、発表当日のホテルでのフライング連絡など、気持ちをずいぶんと揺さぶられる出来事があったことを打ち明けた。客観的に色々と分析をしようとしているものの、まだ現実を受け入れることがやっとというそのときのぼくの精いっぱい言える生の声をそのまま伝えた。

すると、大作さんと国松さんからメッセージが届いた。

「閉鎖の自己アピールで言っていたように、 長年の宇宙飛行士という夢に向かって、情熱とモチベーションをもって一途に取り組んできたビジョンと行動力は、素晴らしい資質だと思う。バランス感覚、リーダーシップ、将来ビジョン、社交性を兼ね備えた内山さんこそ宇宙へ行って活躍して欲しかった。」

涙が溢れた。

同じような境遇のはずなのに、それなのにこんなにもぼくのことを想ったメッセージを送れるものだろうか?ぼくにはとてもできなかった。自分のことで精一杯だった。

本当に素晴らしい仲間に巡り逢えた。こんな大好きな仲間と一緒にこの長い試験を共に戦った時間を共有できたことは本当に幸せなことだと思った。

すっからかんになってしまったぼくのエネルギータンクに、まだエンプティ―ランプは点灯したままだが、少しずつ再び前を向き直すことができるくらいの燃料が注入された。


抜け殻になりそうなぼくを支えたのは、打ち上げまで半年に迫った無人宇宙船「こうのとり」の軌道上運用に向けた追い込み作業だった。フライトディレクタとして訓練を重ねながら、担当する運用準備をゼロから形作っていく作業に四苦八苦していた。忙しかったのは幸いだった。

日本が、いやアメリカですらこれまで開発したことがなかった無人のランデブー宇宙船を、巨大な有人基地 宇宙ステーションへフライトさせる歴史的偉業にチャレンジするチームにいたのだ。

そんな忙しい最中のチームだったが、結果が出た2日後に、ぼくのために『慰労会』を開催してくれた。

ぼくの心はズタボロだったので、どんななぐさめの言葉をかけられても、素直な気持ちで受け入れることは出来なかった。それでも、「チームに戻ってきてくれてホッとした。もし宇宙飛行士になってしまったら、埋めることの出来ない穴をどうすることもできなかったよ。」などと言ってもらえると、正直、嬉しい気持ちになった。

どれだけやさしいなぐさめよりも、ぼくが戻ったことを喜んで受け入れてくれることは一番のなぐさめになった。

ぼくの所属長は、ぼくの不合格連絡を受けた際に、「なぜ選ばれなかったのですか?」と聞いてくれた。ぼくが頼んでもいないのに、ぼくが聞けなかったことをぼくのために聞いてくれた。

新宇宙飛行士候補2人の記者会見にも一緒に出ていたJAXA有人部門(ISS関連プログラムを束ねる部門)の理事(会社でいえば副社長)は、わざわざぼくの席までやってきて、「よくがんばった。惜しかったね。」と声をかけてくれた。

最後まで挑戦したぼくを見てくれていた人たちが、ぼくのために行動してくれることがとても嬉しかった。こういったひとつひとつに触れるにつけ、油断すると、涙が出そうになる。そんな非常に不安定な精神状態だった。

JAXA宇宙飛行士選抜係の担当だった人たちと廊下で会うと、立ち止まって話せるようになった。これまでは、審査中だったため、単なる雑談でもしないように注意されていたので、ようやく普通に話ができるようになった。試験準備から全員分の試験実施、データ収集まで、受験したぼくたち以上に、大変だったはずだ。選抜係にはまだ若い担当も多くいたが、彼らは今後も含め、宇宙飛行士に応募することを放棄して今回の選抜に臨んでいる。受験者とともに彼らも全力で戦っていたのだ。思い出話をすると、すぐに涙ぐみそうになってしまう。

そんな中で、どうして約束の時間よりも早く連絡をすることになったかについての事情を聞いた。よくありそうなことだと思った。ただ、やり方は他にもあっただろうに、とも思った。

しかし、JAXA選抜係が「本当に悪いことをしたと思っている」というのを聞いて、やはり10ヶ月におよぶ試験期間長くずっと一緒だった選抜係の人たちは、ぼくたちの気持ちをよく分かってくれていて、ぼくたちを守ることを考えてくれていたことが分かった。もやもやはすーっと晴れた。

合格発表があったころは、若田飛行士は自身3回目のスペースシャトルミッションで、初めてISSに長期滞在するミッションを目前に控えていた。「きぼう」打ち上げ第3便の船外実験プラットフォームをロボットアームで設置し、「きぼう」日本実験棟を完成させるという大役を担った重要なミッションだ。

そんなタイミングで、ぼくが失意のどん底で送ったメール「残念ながら宇宙飛行士には選ばれませんでしたが、「こうのとり」フライトディレクタとして頑張りますので改めてよろしくお願いします。」に対して、スペースシャトル打ち上げ延期の狭間にも関わらず、次のような丁寧な返信を送ってくれた。

「内山さんは将来宇宙飛行士としてもきっと素晴らしい活躍をしてくれる人材と確信しています。今月からのISS長期滞在後にはHTVクルー運用関連でもいろいろとお世話になると思います。これからもどうぞ宜しくお願い致します。」

今でもぼくを勇気づけてくれる大切な「ことば」の宝物のひとつだ。

そんな中、大学の研究室経由で取材依頼が来た。大西君の取材だった。

10年ぶりの宇宙飛行士候補誕生を盛り上げたかったし、何より大西君を讃えたかったので、脊髄反射的に2つ返事で受けることにした。しかし、発表からまだ数日しか経っていないこの時期の取材は、よく考えてみるとなかなか酷だよな、と少し経ってから気がついた。

それでも、精神的には酷なシーンがたとえあったとしても、ぼくは受けるべきだという思いを強くした。このあとも長きにわたって多くの取材を受けることになるが、宇宙飛行士選抜関連の取材は100%受けると決めたのはこのときだった。

先方は、まさか同期にファイナリストがいるなど知らなかったため、最初は驚き、気を遣ってくれた。

「大西さんと試験を一緒に受けた中で、これはというエピソードは何かありますか?」

などという、このタイミングではなかなか酷な質問も、驚くほど客観視した受け答えができたことに自分でも少々驚いた。

『「大西君の良さは、ここぞというときに妥協しない。今後はエンジニアの立場で支える。日本独自の有人宇宙船に彼を乗せられたら。」と悔しさをこらえて戦友に夢を託す。』

という形で記事にされた。

結果が出た直後(2日後)の取材にも関わらず、このようにポジティブな受け答えが出来たのは、やはり選ばれた2名の実力をぼくの中で心底認めていたからだと思う。


合否結果が出た直後から、NHKスペシャルの番宣が始まった。

NHKの密着は、かなり気合いの入ったものだった。2次試験が始まった10月から2月までみっちり密着していた。試験の合間の雑談も含め、受験者にも溶け込んでいた。受験者と一緒になって、まさに一緒に受験しているも同然、そのくらいこの密着にのめり込んでいた。

ぼくはこの番組にとても期待していた。

宇宙飛行士選抜試験に初めてメディアが密着。さすがNHKだ。取材量も半端なかった。閉鎖環境試験の密着では、1週間コントロールルームで寝泊まりまでした。JAXAの審査員よりもよほどぼくたちのことを観ていた。試験中の個別のインタビューもかなりあった。

ぼくは何よりも宇宙飛行士や日本の宇宙開発の認知度が上がって欲しいと思っていたので、これは日本の宇宙開発にとっても大きなチャンス。何でも使ってもらって素晴らしい番組にして欲しいと思っていた。

NHKスペシャル「宇宙飛行士はこうして生まれた ~密着・最終選抜試験~」の放送日は、合否発表から11日後の3月8日だった。

放送日には、2次試験の仲間たちで集まって上映会を行った。

どういう形で構成されるのか全く分からないのと、NHKの切り口で彼らの都合で番組が構成されるだろうことから、そんな形で登場させられる自分を観たくない気持ちも正直に言うとあった。でも、共感できる仲間が近くにいないで一人で観るのはもっと耐えられないと思ったので、上映会に参加した。

今ほど宇宙開発がメジャーではなかった中で、日本国民に宇宙開発を広める大きなチャンス。当時、テレビの力はまだ絶対的な強さを持っていた。当事者として、これを見届けないという選択肢はなかった。

ぼくたち受験者が知らなかった裏側が映されていた。閉鎖環境試験が行われているあいだ、試験の様子を見つめる審査委員がいるコントロールルームから、閉鎖環境試験中のリアルタイム映像が流される。そこには審査委員の生の声があった。合格者が選ばれるに至ったであろうポイントが取り上げられ、反対に敗者の失敗が晒される。46分という限られた番組、どうしても分かり易さが優先され、そして内容は大部分が省かれ、凝縮される。

「ゼッケンを間違えて横につけるシーン」
「折り鶴を前に頭を抱えてしまうシーン」

ぼくから見たら、こんなのは失敗でも何でも無い。そんな些細なことが大きな評価を占めるような小さい試験ではなかった。閉鎖試験での一場面を捉えて、番組ではこのように評された。

「この日のリーダーは別の人だったが、油井さんがチームを引っ張った。リーダーもまあよく頑張ってるんだけど、話が煮詰まると、油井さんが「こうしよう」と話を前に進めている。自然にリーダーシップを発揮する油井さんを、審査員は高く評価した。」

この日のチームリーダーはぼくだった。

この評価に「それは、ちがう!」と異を唱えたかった。当時、同じ場所にいた国松さんも、そして本人の油井さんですら、ぼくの意見に同意した。その日は油井さんがスケジュール担当だったため、スケジュールに関するサマリをすることで予定の総括をしたのだった。

たしかに、油井さんは、くぐりぬけてきた修羅場が違うのであろう、経験値の差を思わせるパフォーマンスを見せていた。その着目されたシーンでも、確かにチームの方向性を固めることに寄与したことは間違いないし、油井さんがいることでチームが安定したことは確かだ。そして何より、油井さんの凄さは傍にいたぼくたちが一番肌身に染みて痛感していた。「自衛隊幹部候補ってこんなにも優秀なのか!」と底知れぬ実力に驚いていたのだ。

ただ、ぼくの何が悪かったというのだ。評価される側が異を唱えるチャンスは与えられない。シーンの切り取られ方で、一方的に評価されたのではないか、と過敏な被害者意識をもった。それ以外、大した出番もなかったぼくは、10か月間に及んだこれまでの努力が、たった46分に凝縮されてしまったことに対する空しさもあり、このワンシーンに変に執着してしまった。

冷静になれば、油井さんが素晴らしかった数あるシーンのうちで、たまたまこのシーンが切り取られただけなのだ。それが全体の評価というわけではない。

それでも、まだ出来たての傷は、さらに深くえぐられた。

そんな個人的な感情も抱いてはしまったが、番組としてのぼくの率直な感想は「限られた46分という枠内にうまくまとめられた良い番組」だった。

まあ、こんな感じになるよね。たったの46分。わかりやすさが大事。何百時間も回したであろうカメラも、99.9%は使われなかった。それでも、秘密のベールに包まれた宇宙飛行士選抜試験を、わかりやすい形で、広く一般の人に伝えたメッセージ性は大きかった。反響も大きかった。

ぼくのことはあまり取り上げられず、映像では「わざとか?」と思うくらい背中越しのシーンばかりが採用されていたが、それでもぼくに気づいてくれて、久しぶりに連絡をしてくれる知り合いが多かった。テレビの力は偉大だと思った。JAXAがどれだけ頑張って広報活動しても、テレビには到底及ばない。

これまでは完全クローズドで行われていた宇宙飛行士選抜試験だったが、このNHK密着により認知度が上がり、この試験をオープンにしたJAXAの姿勢は好意的に受け取られる結果となった。日本の有人宇宙開発史に残る大きな出来事だった。

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※注:このものがたりで書かれていることは、あくまで個人見解であり、JAXAの見解ではありません

 


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<著者紹介>

内山 崇

1975年新潟生まれ、埼玉育ち。2000年東京大学大学院修士課程修了、同年IHI(株)入社。2008年からJAXA。2008(~9)年第5期JAXA宇宙飛行士選抜試験ファイナリスト。宇宙船「こうのとり」初号機よりフライトディレクタを務めつつ、新型宇宙船開発に携わる。趣味は、バドミントン、ゴルフ、虫採り(カブクワ)。コントロールの効かない2児を相手に、子育て奮闘中。

Twitter:@HTVFD_Uchiyama