究極のエゴ/『宇宙に命はあるのか 〜 人類が旅した一千億分の八 〜』特別連載18 | 『宇宙兄弟』公式サイト

究極のエゴ/『宇宙に命はあるのか 〜 人類が旅した一千億分の八 〜』特別連載18

2018.06.04
text by:編集部コルク
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「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!

『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕さんがひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕さんの書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。

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ちょうどその頃、ある唐突なニュースがNASAラングレー研究所に降ってきた。

「は? ヒューストン? 誰がそんなクソ田舎に行くか!」

フェジットがニュースを聞いた時、そんな風に怒鳴っただろう。フェジットたちの宇宙タスク・グループがラングレー研究所から独立してテキサス州ヒューストンに移転し、新しいNASAセンターになる。そんな指示が、突如として本部から降ってきたのだ。日本の感覚でいえば、テキサスは「亜熱帯にある北海道」といったイメージだろう。灼熱。湿気。地の果てまで続く牧場。牛。牛。牛。牛。ヒューストンは大都市だが、ラングレー研究所のあるバージニアとは文化が全く違う。ほとんど島流しのようなものだった。

そうして700人の技術者が渋々とヒューストン郊外の広大な空き地に移転してできたのが、NASA有人宇宙飛行センターだった(後にジョンソン宇宙センターと改称された)。フェジットは新センターの中心メンバーとなった。

一方、ハウボルトはヒューストンに行かなかった。彼に声がかからなかったのか、あるいは彼自身が頑固に拒否したのかはわからない。どちらにしても、ラングレーに残されたハウボルトはモード選択の議論からも取り残された。だが、ヒューストン移転組がラングレーを出発する頃には、皆すっかり月軌道ランデブー派に「改宗」していた。

しかしまだ最大の強敵が残っていた。フォン・ブラウンだった。彼と、彼が率いるNASAマーシャル飛行センターは地球軌道ランデブー・モードに固執していた。その理由のひとつは政治的なものだったと言われている。地球軌道ランデブー・モードは一回のミッションで複数機のロケットが必要なので、ロケットを担当するマーシャルの役割が大きくなる。対して月軌道ランデブー・モードならばヒューストンの役割が相対的に大きくなる。モード選択はセンター間の主導権争いでもあったようだ。

1962年4月、引っ越しを終えたばかりのヒューストンの主要メンバーがマーシャル飛行センターに出張した。ハウボルトには声がかからなかった。代わりに、かつてはハウボルトを頭ごなしに否定したフェジットらが、月軌道ランデブーの利点を丸一日かけてフォン・ブラウンたちにプレゼンした。

ミーティングが終わった時、会議室は長い沈黙に包まれた。マーシャルの優秀な技術者たちは頭では理解していたのかもしれない。だが、彼らは頑固に意見を変えなかった。

1962年6月、今度はNASA本部の面々をマーシャルに迎えてミーティングが行われた。フォン・ブラウンの部下たちは地球軌道ランデブーを必死に守ろうとした。

フォン・ブラウンは黙ってそれを聞いていた。彼は何を考えていたのだろうか?

もしかしたら、子供の頃の夢を思い出していたのかもしれない。13歳の誕生日に母にもらった望遠鏡で夢中になって眺めた月。そこへ人類を送り込むことこそが、彼が見続けた夢だった。彼は月に行きたかった。誰よりも行きたかった。

聡明なフォン・ブラウンは、月軌道ランデブーが優れていることを既に理解していたのだろう。だが、もし月軌道ランデブーが選ばれたら、自分のセンターが主導権を失い、予算が減り、最悪の場合は部下をレイオフしなくてはならないかもしれない。それでもやはり、彼は自分の夢を叶えたかった。それはある意味、究極のエゴだった。

六時間に及んだミーティングの最後にフォン・ブラウンは立ち上がり、部下たちに唐突に告げた。

「ジェントルマン、今日の議論はとても面白かったし、我々は非常に良い仕事をした。地球軌道ランデブーは実現可能だ。だが、1960年代終わりまでに月着陸を成功させる可能性がもっとも高いのは月軌道ランデブーだ。これをセンターの方針にしたい。」

言葉こそ丁寧だったが、それは独断だった。会議室は沈黙した。沈黙は受動的な受諾を意味した。そしてアポロ計画の主導権は、ヒューストンに渡ることになった。

ハウボルトの頑固で孤独な戦いは、こうして実を結んだ。しかし皮肉なことに、月軌道ランデブーがNASA全体の方針になるにつれ、この一介の技術者の名は忘れられていった。ハウボルトはミーティングに呼ばれることもなく、ミーティングがあることすら知らされず、月軌道ランデブーは語られてもハウボルトの名は語られることはなかった。

悔しかっただろうか。それとも、自分が蒔いた種が花咲くのを陰から見るだけで満足しただろうか。ハウボルトはフェジットやフォン・ブラウンほどはエゴが強くなかったかもしれない。それでも、誰にだって功名心というものはあるだろう。親の名を知らぬ愛娘が立派に成長していくのを、陰からこっそり見ることしかできない父の気持ちは、いかなるものだっただろうか……。

(つづく)

 

<以前の特別連載はこちら>


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【第14回】〈一千億分の八〉月探査全史〜神話から月面都市まで
【第15回】〈一千億分の八〉人類の火星観を覆したのは一枚の「ぬり絵」だった
【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
【第17回】〈一千億分の八〉火星ローバーと僕〜赤い大地の夢の轍
【第18回】〈一千億分の八〉火星植民に潜む生物汚染のリスク

〈著者プロフィール〉

小野雅裕(おの まさひろ)

NASA の中核研究機関であるJPL(Jet Propulsion Laboratory=ジェット推進研究所)で、火星探査ロボットの開発をリードしている気鋭の日本人。1982 年大阪生まれ、東京育ち。2005 年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9 月よりマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学。2012 年に同航空宇宙工学科博士課程および技術政策プログラム修士課程修了。2012 年4 月より2013 年3 月まで、慶応義塾大学理工学部の助教として、学生を指導する傍ら、航空宇宙とスマートグリッドの制御を研究。2013 年5 月よりアメリカ航空宇宙局 (NASA) ジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)で勤務。2016年よりミーちゃんのパパ。主な著書は、『宇宙を目指して海を渡る』(東洋経済新報社)。現在は2020 年打ち上げ予定のNASA 火星探査計画『マーズ2020 ローバー』の自動運転ソフトウェアの開発に携わる他、将来の探査機の自律化に向けた様々な研究を行なっている。阪神ファン。好物はたくあん。

さらに詳しくは、小野雅裕さん公式HPまたは公式Twitterから。