「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!
『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕さんがひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕さんの書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。
では、火星植民はどうか。SpaceXのイーロン・マスクは今後十年程度で火星植民を始めると言っている。夢があるし、ワクワクするし、僕もできることなら生きているうちに火星に行ってみたい。
イーロン・マスクの宇宙開発への貢献はどんなに賞賛してもしすぎることはない。彼は文字どおり宇宙の民間時代を切り拓いた。そして長らく宇宙開発のボトルネックだった打ち上げコストを大幅に下げようとしている。彼の名は間違いなく、フォン・ブラウンなどと並んで宇宙開発の歴史に刻まれるだろう。そして彼の実行力からすれば十年という目標は無理があるかもしれないが、いずれ近いうちに火星植民を実現してもおかしくはない。
だが、 僕はイーロン・マスクの前のめりな姿勢にいくばくかの危機感を覚える。数万人が火星に移住するとなると、たった数人の宇宙飛行士に比べ、惑星防護ははるかに難しくなる。宇宙条約やCOSPARの惑星防護ポリシーに罰則はないが、無視していいのでは決してない。彼はちゃんと対策を考えているのだろうか? 惑星防護の研究開発に投資しているのだろうか? リスクを適切に評価しているのだろうか? 逆汚染で地球を危機に陥れるリスクは考慮しているのだろうか?
宇宙への移民は人類の宿命だと僕も思う。いずれその日は間違いなく来る。そして、火星に研究所ができ、科学者が現地調査できるようになれば、火星生命を含む科学的理解は急速に進むだろう。
だが、急いで事を台無しにしてはいけない。
今ひとつ、学ぶべき過去がある。十九世紀のドイツの実業家ハインリヒ・シュリーマンは、幼少の頃に読んだギリシャの叙事詩『イーリアス』(「トロイの木馬伝説」の話)に興奮し、その舞台であるトロイアの街をいつか自分の目で見たいと夢見た。当時はトロイアは架空の地だというのが常識だったが、シュリーマンは大人になってもその実在を頑なに信じ続け、貿易で成した財を使って発掘を開始した。
トロイアの場所を正確に推測したシュリーマンに考古学の才能と見識があったことは間違いないだろう。だが、彼は事を急いだ。第一発見者の栄誉を欲したからかもしれないし、生きている間に確実に自分の目で見たかったからかもしれない。適切な記録を取る事なく乱暴に地面を掘り、そして彼はトロイアを発見した。それは考古学史上の大発見となった。だが、後にわかったのは、『イーリアス』に描かれたトロイアはシュリーマンが性急に掘って破壊してしまった層にあったことだ。失われた歴史的記録は二度と戻らない。シュリーマンが夢見た『イーリアス』のトロイアは、皮肉にもシュリーマン自身の手により宇宙から永遠に消し去られてしまった。
なぜ、イーロン・マスクは急ぐのだろうか?
「地球のバックアップのため」と彼は言う。だがこれは根拠に乏しい。次の章で詳しく解説するが、少なくとも向こう百年では、隕石の衝突など外的な要因で文明が滅ぶ確率は飛行機事故より低い。それよりも人類自身が地球温暖化や核戦争で自らを滅ぼす可能性の方が圧倒的に高い。そうだと信じたくはないが、もし人類が自らを滅ぼしてしまうほど愚かならば、二つ目の惑星を壊す前に、地球と一緒に滅びるべきではなかろうか?
「自分が生きているうちに見たい」と思うのかもしれない。僕もそう思う。しかし、一人の実業家のエゴは一つの惑星よりも重いのだろうか? 四十億年の冬をじっと耐え抜いた火星生命の命は人類の夢よりも軽いのだろうか? 人類は宇宙の前に、自然の前に、そこまで偉いのだろうか? 謙虚さを忘れてはいないだろうか?
人類文明とは一万年かけて少しずつ、少しずつ積み上げられてきた物だ。そしてその文明の歴史すら、本書冒頭の「新創世記」で書いたように、宇宙の時間スケールに比べればほんの一瞬でしかない。十年で移民しなくては火星がなくなってしまうことはない。必要なら五十年でも、百年でも、千年でも待てばいい。文明が後退ではなく前進するために。過去の過ちを繰り返さないために。
我々は間違いなく歴史の転換点に立っている。我々が何を成しても、何を犯しても、歴史はそれを記憶するだろう。この時代にあって、我々はもう一度、なぜ宇宙に行くのかを、深く考えるべきだと思う。
大航海時代にヨーロッパ人が新天地を目指したのには様々な理由があった。
ピサロは黄金を目的に南米を征服した。
宣教師はキリスト教を広めることが善だと考えた。
市民は肉を美味にする香辛料を安く手に入れることを欲した。
船会社は香辛料を売って儲けるためにインドを目指した。
列強諸国は資源と植民地を獲得し、自国の版図を拡大するために海を渡った。
では、我々はなぜ宇宙へ行くのか?
地球を滅ぼした場合のバックアップのためか?
植民地を獲得し人類の版図を拡大するためか?
資源を獲得するためか?
それとも、 我々は何者か、我々はどこから来たのか、我々はひとりぼっちなのか、そんな深遠な問いへの答えを求めるためだろうか?
宇宙は我々を試している。人類が進歩したか、していないかを。
<以前の特別連載はこちら>
- 01 宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─
- 02 幼年期の終わり
- 03 ロケットの父の挫折
- 04 フォン・ブラウン〜宇宙時代のファウスト
- 05 ナチスの欲したロケット
- 06 ヒトラーの目に灯った火
- 07 悲しきロケット
- 08 宇宙を目指して海を渡る
- 09 鎖に繋がれたアメリカン・ドリーム
- 10 セルゲイ・コロリョフ〜ソ連のファウスト博士
- 11 スプートニクは歌う
- 12 60日さえあれば
- 13 NASAの誕生、そして月へ
- 14 最初のフロンティア
- 15 小さな一歩
- 16 嘘だらけの数字
- 17 無名の技術者の反抗
- 18 究極のエゴ
- 19 プログラム・アラーム1202
- 20 アポロ誘導コンピューター
- 21 新技術「ソフトウェア」
- 22 宇宙飛行士は完璧か?
- 23 The Eagle has landed
- 24 「ジョン、ありがとう」
- 25 鳥は翼で空を飛ぶ。人はイマジネーションで月に行く
- 26 20XX年 宇宙の旅
- 27 異世界の空
- 28 一千億分の八〜太陽系探査全史
- 29 偉大なる降格
- 30 NASAに飾られた一枚の「塗り絵」
- 31 偉大なる降格
- 32 NASAに飾られた一枚の「塗り絵」
- 33 22枚のデジタル写真
- 34 孤独の発見
- 35 ボイジャー〜惑星の並びに導かれた運命の旅人
- 36 パサデナの海賊
- 37 新たなる希望
- 38 木星の恋人
- 39 土星の月の冷たい雨
- 40 技術者の官僚主義に対する小さな勝利
- 41 不知為不知、是知也
- 42 海王星は青かった
- 43 命の賛歌
- 44 Are we alone?
- 45 命とは何か?
- 46 最終手段の仮説
- 47 命の証拠〜レゴの原理
- 48 火星サンプルリターン
- 49 火星ローバーの自動運転
- 50 火星に命はあるのか?
- 51 エウロパ生命探査
- 52 Journey to the Center of Icy Moons?〜氷底探検
- 53 我々はどこから来たのか?
- 54 生物汚染のジレンマ
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『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』の元となった人気連載、『一千億分の八』をイッキ読みしたい方はこちらから
【第1回】〈一千億分の八〉はじめに
【第2回】〈一千億分の八〉ガンジス川から太陽系の果てへ
【第3回】〈一千億分の八〉地球をサッカーボールの大きさに縮めると、太陽系の果てはどこにある?
【第4回】〈一千億分の八〉すべてはSFから始まった〜「ロケットの父」が愛読したSF小説とは?
【第5回】〈一千億分の八〉なぜロケットは飛ぶのか?〜宇宙工学最初のブレイクスルーとは
【第6回】〈一千億分の八〉なぜロケットは巨大なのか?ロケット方程式に隠された美しい秘密
【第7回】〈一千億分の八〉フォン・ブラウン〜悪魔の力を借りて夢を叶えた技術者
【第8回】〈一千億分の八〉ロケットはなぜまっすぐ飛ぶのか?V-2のブレイクスルー、誘導制御システムの仕組み
【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」
【第10回】〈一千億分の八〉宇宙行き切符はどこまで安くなるか?〜2101年宇宙の旅
【第11回】〈一千億分の八〉月軌道ランデブー:無名技術者が編み出した「月への行き方」
【第12回】〈一千億分の八〉アポロを月に導いた数式
【第13回】〈一千億分の八〉アポロ11号の危機を救った女性プログラマー、マーガレット・ハミルトン
【第14回】〈一千億分の八〉月探査全史〜神話から月面都市まで
【第15回】〈一千億分の八〉人類の火星観を覆したのは一枚の「ぬり絵」だった
【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
【第17回】〈一千億分の八〉火星ローバーと僕〜赤い大地の夢の轍
【第18回】〈一千億分の八〉火星植民に潜む生物汚染のリスク
〈著者プロフィール〉
小野雅裕(おの まさひろ)
NASA の中核研究機関であるJPL(Jet Propulsion Laboratory=ジェット推進研究所)で、火星探査ロボットの開発をリードしている気鋭の日本人。1982 年大阪生まれ、東京育ち。2005 年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9 月よりマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学。2012 年に同航空宇宙工学科博士課程および技術政策プログラム修士課程修了。2012 年4 月より2013 年3 月まで、慶応義塾大学理工学部の助教として、学生を指導する傍ら、航空宇宙とスマートグリッドの制御を研究。2013 年5 月よりアメリカ航空宇宙局 (NASA) ジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)で勤務。2016年よりミーちゃんのパパ。主な著書は、『宇宙を目指して海を渡る』(東洋経済新報社)。現在は2020 年打ち上げ予定のNASA 火星探査計画『マーズ2020 ローバー』の自動運転ソフトウェアの開発に携わる他、将来の探査機の自律化に向けた様々な研究を行なっている。阪神ファン。好物はたくあん。