宇宙から地球を見たら、どう見えるだろうか?
月の表側では地球は沈まない。まるでピンで空に留められたように、昼も夜も同じ場所にある。伸ばした腕の親指に隠れてしまうほどの大きさである。1ヶ月周期で満ち欠ける。地球で満月のとき月では新地球。地球で新月のとき月では満地球。地球人が上弦の月を眺めるとき月の友人は下弦の地球を仰ぎ、地球人が下弦の月を見つめるとき月の恋人は上弦の地球を見上げている。
火星に青い夕日が沈んだ後、西の低い空に明るい星がふたつ見えたら、より明るい金色の星が金星、少し暗い青い星が地球だ。時期によっては日の出前の東の空に見える。肉眼では点にしか見えない。だが、2年2ヶ月に一度の接近時に大きめの望遠鏡で見れば雲や海や大陸を見分けることができるかもしれない。移民者は目を凝らし、ぼやけた望遠鏡の視野の中に自分の生まれ故郷の街を探すことだろう。
巻頭に探査機カッシーニが土星から撮った地球の写真を載せた。ここから見ると、地球はもはや目立つ星ではない。土星の数多の衛星の方がはるかに明るく見える。
最後に、次ページに掲載した写真を見てほしい。ボイジャー1号が海王星軌道よりさらに遠く、40天文単位(60億㎞)の距離から撮った地球だ。明るさは4等から5等。街明かりのない暗い夜空ではないと見えない、無数にある淡い星屑のひとつだ。カール・セーガンはこれをPale Blue Dot(淡く青い点)と呼んだ。この写真にインスパイアされて書かれた彼の著書”Pale Blue Dot”に次のような一節がある。
もう一度、あの点を見て欲しい。あれだ。あれが我々の住みかだ。あれが我々だ。あの上で、あなたが愛する全ての人、あなたが知る全ての人、あなたが聞いたことのある全ての人、歴史上のあらゆる人間が、それぞれの人生を生きた。人類の喜びと苦しみの積み重ね、何千もの自信あふれる宗教やイデオロギーや経済ドクトリン、すべての狩猟採集民、すべてのヒーローと臆病者、すべての文明の創造者と破壊者、すべての王と農民、すべての恋する若者、すべての母と父、希望に満ちた子供、発明者と冒険者、すべてのモラルの説教師、すべての腐敗した政治家、すべての「スーパースター」、全ての「最高指導者」、人類の歴史上すべての聖者と罪人は、この太陽光線にぶら下がった小さなチリの上に生きた。
地球は広大な宇宙というアリーナのとても小さなステージだ。考えてほしい。このピクセルの一方の角の住人が、他方の角に住むほとんど同じ姿の住人に与えた終わりのない残酷さを。彼らはどれだけ頻繁に誤解しあったか。どれだけ熱心に殺しあったか。どれだけ苛烈に憎しみあったか。考えてほしい。幾人の将軍や皇帝が、栄光の勝利によってこの点のほんの一部の一時的な支配者になるために流れた血の川を。
我々の奢り、自身の重要性への思い込み、我々が宇宙で特別な地位を占めているという幻想。この淡い光の点はそれらに異議を唱える。我々の惑星は宇宙の深遠なる闇に浮かんだ孤独な芥だ。地球の目立たなさ、宇宙の広大さを思うと、人類が自らを危機に陥れても他から救いの手が差し伸べられるとは思えない。
地球は現在知る限り命を宿す唯一の星だ。少なくとも近い将来に、我々の種族が移民できる場所は他のどこにもない。訪れることはできるだろう。移住はまだだ。好もうと好むまいと、今のところ、我々は地球に依存せねばならない。
天文学は我々を謙虚にさせ、自らが何者かを教えてくれる経験である。おそらく、このはるか彼方から撮られた小さな地球の写真ほど、人間の自惚れ、愚かさを端的に表すものはないだろう。それはまた、人類がお互いに優しくし、この淡く青い点、我々にとって唯一の故郷を守り愛する責任を強調するものだと私は思う。
(カール・セーガン『Pale Blue Dot』より、筆者訳)
Credit: NASA/JPL-Caltech