挑戦、はじまる
ぼくの宇宙飛行士選抜試験への挑戦が始まった。
応募書類を早々に書き上げたぼくは、6種類の応募書類に抜けがないか繰り返し確認した。
応募書類の中でも最も重要な志願書は、目一杯気持ちを込めて手書きで書き上げた。字を書くことが少なくなっていたぼくの右手中指には、学生時代を思い出させる懐かしい“ペンだこ”ができあがっていた。
選抜過程をあとで見返せるように、また、次回にも生かせるようにと考え、提出した書類はすべてコピーを取っておいた。
志願書の記入項目には、重要なパートが2つあった。
ひとつは、「これまでの研究/開発業務歴」。
テーマごとに業務内容の詳細および自身が成し遂げた成果と、合わせて“実施形態“という欄には、個人なのかチームなのか、チームの場合はチーム内での自分の役割を記入することになっていた。6つのテーマに絞り、入社以来ずっと携わっている宇宙船「こうのとり」の開発業務と、来年に迫った打ち上げ・初ミッションに向けての運用準備業務について、これまで全力で打ち込んできた業務は必ず宇宙飛行士になってからも役に立つはず、という信念を込めて丁寧に書き込んだ。
もうひとつは「応募動機」だ。
志願書に当たり前に求められることだが、ここでどれだけ本気度を見せられるかが勝負だ。ぼくは、今現在全力投球している仕事も、ぼくがやりたかったことドストライクであることを正直に書いた上で、「地球代表である宇宙飛行士という立場で、全世界規模の有人宇宙開発に携わり続け、かつ、日本の有人宇宙活動推進に力添えしたい」という地球規模で宇宙開発に貢献したいという高い目標を掲げた。「自分のめざす宇宙飛行士像について」という欄には、「日本の宇宙開発をメジャーにする活動に積極的に取り組みたい」という当時ぼくが強く持っていた想いを、魂を込めて書き込んだ。
実は、「宇宙に行ってみたい」という言葉は使わなかった。宇宙に行きたい気持ちももちろんあるのだが、『宇宙飛行士になって人類の有人宇宙開発に貢献したい』という想いが強かった。宇宙飛行士として生きていく覚悟、力強い字にその想いをしっかり込めた。
また、志願書にはひとつ特徴的な項目があった。
それは、「応募に対する家族の意見」という項目だった。
宇宙飛行士の生活は決して一人だけでは成り立たない。海外での訓練や宇宙ミッション中は、長い間家を空けることになる。その不在期間は、家族のサポートが必須だ。もしもの時のことも考えないわけにはいかない。宇宙飛行士の家族として心理的な負担もある。家族のサポートがあってはじめて宇宙飛行士の生活が成り立つといっても良い。
油井飛行士は、自分のミッションの打ち上げに臨む気持ちと、家族サポートで同僚宇宙飛行士の打ち上げを見守るのとでは、むしろ見守ったときの方が、緊張し、心配し、不安になったと言っていた。同僚飛行士の不安な気持ちを抱く家族を目の前でサポートしている、という責任からくるものもあるだろう。直接何かができるわけではなく見守ることしかできないだけに、心配する気持ちが先行してしまう。
「宇宙飛行士になりたい」という夢に没頭し過ぎると、自分を客観視できなくなり、抱えるリスクを過小に捉えがちだ。むしろ、家族や親は、客観的に冷静に見ることができ、「なんでわざわざ好き好んで危険なことを・・・」と思う気持ちが沸くかもしれない。しかし、本当に宇宙飛行士になりたいのであれば、反対意見があったとしても、自分の夢を追い求めるために、応援してもらえるように説得すべきだ。その心配してくれる一番身近な家族すら説得できないようでは、宇宙飛行士としてやっていくことはできない。それが応募にあたっての1つの前提条件とされている。
ぼくは当時独身だったため、母親に「息子の夢を応援している」と書いてもらった。この時点では純粋に、「宇宙が好きで宇宙に行ってみたい息子のチャレンジを応援する」という気持ちを持ってもらっていた。
こうして書き上げた志願書を含む応募書類を、抜けがないかしっかりと確認し、4月の終わりに提出した。
募集要項にかかれていた選抜プロセスはこうだ。
この階段を登り切り、宇宙飛行士候補者に選ばれる栄冠を勝ち取るため、その第一歩を踏み出した。
と言っても、当時のぼくは「いったいどんな超人たちがこの難関を突破して宇宙飛行士候補になるのだろう?」と自分とは少しかけ離れたものだと思っていて、その夢に向かう道筋は暗中模索だった。まだ先の見えない遠い道のりの第一歩だった。
宇宙飛行士候補の選抜方法
宇宙飛行士を選ぶということは、正しい資質(=ライトスタッフ)を見い出し、その上で、日本代表の宇宙飛行士になることができる素質を見抜くことだ。この選抜を行う側の責任は非常に大きく、相当な準備を行った上で、候補者の人生を預かる覚悟をもって臨むことになる。
宇宙飛行士選抜試験は、以下の2つの手法の組み合わせで行われている。
セレクト・イン 集団から基準を満たす適格者をずばり選び出す
セレクト・アウト 集団から基準を満たさない不適格者を外していく
初めて人類を宇宙に送った宇宙開発初期は、「セレクト・イン」が採用されていた。
当時は、軍の戦闘機パイロットが宇宙飛行士と求められる能力が近いということで、軍の戦闘機パイロットの採用基準が参考にされた。そこで、軍のパイロットの凄腕の中から、さらに絞り込んで適格者を選び出すという方法を採っていた。候補者全員に、様々なストレスをかけた状態で飛行機や宇宙機の操縦をさせ、過酷な環境に追い込んでも高い操縦技能を発揮できる、精神的にも心理的にも肉体的にも強い人間が選ばれた。
軍のパイロットが宇宙飛行士になっていた時代はそれで充分であった。既に近い素質をもった軍のパイロットの選りすぐりから、絞り込めば良い。しかし、現在では、宇宙で様々な活動が行われるようになり、宇宙飛行士に求められる能力に多様性が生まれた。宇宙船の操縦のみならず、様々な宇宙環境を利用した実験、それらの活動を維持するために必要な機器のメンテナンスや修理、広報活動や教育活動を行い、そして何より長期にわたり宇宙で生活をするようになった。
こういった宇宙活動の広がりにより、パイロットに加え、技術者、科学者、医者などのバックグラウンドを持つ宇宙飛行士が必要となっている。そのため、宇宙飛行士として求められる能力にも多様性が加わり、それに伴い応募者のバックグラウンドも多様化し、候補となる人の数も増える。そして様々な得意分野を持った者たちが挑むことになる。
その様々なバックグラウンドをもった応募者の中から宇宙飛行士として適格者を選び出すには、宇宙飛行士として必要な資質を定義し直し、選ぶ基準を設定することが必要だ。そこで、採用されるようになったのが、まずは宇宙飛行士になるにあたって最低限クリアしておくべき基準を設定し、その基準に沿ってふるいにかけて絞り込んでいく「セレクト・アウト」だ。ふるいにかける「セレクト・アウト」を選抜過程の早い段階で行い、絞り込んだのちに、より詳細な選抜(試験や検査)を行い、最終的には「セレクト・イン」により適格者を選び出すという手法が生まれた。
序盤の書類選考、英語試験、一次選抜はいずれもこの「セレクト・アウト」試験、いわば「足切り」だ。学力、教養、精神・心理、身体など多岐にわたる項目で、宇宙飛行士として最低限保有していなければならない明確なボーダーライン/基準を設定し、ひとつでもその基準に達していなければふるいにかける。より詳細な選抜の前に、その過程により絞り込むのだ。
例えば、英語がネイティブ並で満点だったとしても、この段階では、ただ単に一つの項目をクリアしたことにしかならない。他の点数がいくら高くても、例えば、一項目が30点(基準に満たない)だった場合は不適格とみなされ落とされてしまう。総合点勝負ではなく、各基準のすべてにおいて基準点を満たさなければならないというのが、この「セレクト・アウト」である。
二次選抜以降は、より詳細な選抜を行い、「セレクト・アウト」と「セレクト・イン」のコンビネーションにより選抜を進めていく。
段階的に詳細な検査/試験を行い、「セレクト・アウト」を行う。その上で「セレクト・イン」により上位を選ぶという方式だ。例えば、二次選抜から三次(最終)選抜では、50名から10名へ絞られたが、50名のうち「セレクト・アウト」により、ふるいにかけられたXX(非公表)名から、上位10名が選ばれ最終選抜へ進むという具合だ。
選抜試験開始と「きぼう」稼働! 新しい時代の幕開け
応募書類を早々に出し終えたぼくは、次の英語試験の準備をしつつ、その次の一次選抜に向けて何を準備すべきか考え始めていた。
英語試験は、6月8日(日)と7月5日(土)の2回と予め決められていた。そのどちらかで都合をつける必要がある。ぼくは仕事の関係で7月は海外出張の可能性があったため、前半の6月8日を選択した。英語試験に向けての準備期間は少なくなるが、その分、次の一次試験向けには時間が取れるのだからむしろ良いだろう。 応募書類の提出期限が4月1日から6月20日まで取られていたため、後半の6月以降に応募書類を提出した人は、7月5日の回の一択となってしまったはずだ。
英語試験の構成は、 以下のとおりだった。いわゆる民間が行う英語試験だと想像がつく。
・リスニング/リーディング試験(筆記式) 120分
・ライティング試験(コンピュータ入力式) 75分
普段「時間には縛られた人生は送りたくない」などとかっこつけて腕時計をしない習慣のぼくは、「持参するもの」に書かれた「腕時計」に、目立つよう蛍光ペンでマークをした。
ちょうどこの英語試験のタイミングと時期を同じくして、日本にとって歴史的なスペースシャトルミッションが行われようとしていた。このミッションは、「きぼう」日本実験棟の打ち上げ第2便であり、3月に第1便として宇宙ステーションに設置された「きぼう」船内保管室に続くものだ。いよいよ日本が丹精込めて開発した「きぼう」日本実験棟の核である「きぼう」船内実験室の出番だ。STS-124とナンバリングされたこのスペースシャトルミッションで、「きぼう」船内実験室をスペースシャトルのカーゴベイに収めて打ち上げ、宇宙ステーションに取り付ける一大組み立てミッションを行うのだ。
「きぼう」日本実験棟がついに稼働する『日本の宇宙ステーション利用の幕開け!』という歴史的瞬間。このタイミングで追加の宇宙飛行士募集が同時並行的にかけられていたのは、このフライトの見通しが立ったからであった。
当時の新人宇宙飛行士3名のトップバッター星出彰彦飛行士が、自身の初フライトで、この歴史的重要ミッションへのアサインを勝ち取っていた。日本人として初めて、宇宙ステーションのロボットアーム(カナダアーム)を操作し(※注釈①)、スペースシャトルのカーゴベイから「きぼう」船内実験棟を取り出し、宇宙ステーションに設置するという大役を担ったのだ。
※注釈①
若田飛行士の初飛行である1996年のスペースシャトルミッションSTS-72にて、若田飛行士が日本人として初めてスペースシャトルのロボットアームを操縦した。宇宙ステーションのロボットアームの操作は星出飛行士が初である。
ぼくは、宇宙船「こうのとり」の開発担当だったため、「きぼう」の重要ミッションであるこのミッションには直接関わってはいなかったが、このミッションのサポート要員として借り出されることになった。「こうのとり」ではあまり縁のないスペースシャトルミッションは、ぼくにとって勉強になる良い機会であるし、よく知っている星出飛行士のミッションサポートということもあって張り切って臨んだ。
ミッションサポートには土日もないが、上司には受験していることを打ち明け、英語試験を受験する6月8日(日)はシフトから外してもらった。すると、そのやり取りの中で、同じプロジェクトにも数名、過去受験した経験がある人がいることがわかり、「応援するよ、頑張れ!」と後押ししてくれた。多くの受験者は孤独に試験を受けることになる中、職場で最も近い人から応援してもらえるというのは、とても大きな励みになった。
ミッションサポートのあいだ、実験ラック/システムラックがまったく設置されていない、がらんどうの「きぼう」モジュールを画面越しに眺めていた。
「よし!ここで将来働くぞ!」
とまではまだまだ思える段階ではなかった。
夢へのチャレンジはスタートしたばかり。ぼくが選抜を勝ち残っていくイメージは持ててはいなかった。 ただ、この選抜試験で選ばれる宇宙飛行士は、将来この「きぼう」で仕事をすることになる。その将来の仕事場となる「きぼう」が宇宙ステーションに設置されたことにワクワクが止まらなかった。
“がらんどう”でだだっ広い「きぼう」に、宇宙飛行士たちが続々と入ってくるのが画面越しに見えた。みなスーパーマンのようにスイスイ飛びながら画面を横切っていく。「一体これから何が始まるのだろう?」と画面を眺めていたら、なんと宇宙飛行士たちが無邪気に遊び出した!
彼らの遊びはこうだった。
・円筒状の「きぼう」の中心軸上に沿って、宇宙飛行士を置く。流れて動いていかないように空中に固定する。
・手を離し、その宇宙飛行士を1人の状態にする。
・いくらじたばたもがいても、泳いでも、捕まるところに手も足も届かないため、どこにも移動できなくなる。ひたすらじたばたじたばた。
・それを見て、みんなで笑う。
・交代して別の人が空中に置かれる。
(エンドレス)
本当に子供のような無邪気さで楽しんでいた。初めての遊具で遊ぶ小学生のようだ。「おいおい、いつまで遊んでるんだ?」と笑顔でツッコミを入れてしまうくらい長い間、遊びつづけていた。
それもそうだ。
この後、ラックが運び込まれてしまうと、このような広々とした空間を二度と楽しむことができないのだ。この瞬間だけのスペシャルサービスタイム。地上管制官も大目に見たのだろう。宇宙ステーションにいる宇宙飛行士全員がこの瞬間を満喫していた。
宇宙飛行士たちがはしゃぎ回るなか、星出飛行士は『宇宙実験&宇宙飛行士募集!』と日本語で書いた紙を船内カメラに向けて広げ、日本国民全員へのアピールを行った。
世界初!宇宙有人軌道上研究所、新設!!
まさに、新しい時代の幕開けだった。
こうした風景を、ぼくは微笑ましくそしてうらやましく眺めていた。過酷な宇宙ミッションの中にいて、このように無邪気に遊ぶことができる宇宙飛行士に、改めて憧れを強くした。厳しい訓練、過酷なミッション、その中にきっと宇宙飛行士にしか味わえない数々の宇宙体験があるに違いない。
ぼくの好奇心は見聞きしただけでは満たされない。実際にそこまで行って体験しなければ!想いは強くなるばかりだ。
「きぼう」の打ち上げ・設置ミッション成功に、さらにテンションを高くしたぼくは、その数日後に英語試験を迎えた。ところが、1時間以上かけてたどり着いた英語試験会場で、ぼくはとても驚いた。
会場があまりにガラガラだったのだ。ほとんど受験者がいなかったと言って過言ではないくらいに。
JAXAの宇宙飛行士募集ウェブサイトをチェックすると、5月30日時点での応募者数は105名。1998年募集時の同時期よりは20%ほど多いが、応募期間の半分過ぎと言うことを考えると好調な出だしとは言えなかっただろう。
最終的な応募者が963名だったことから振り返って計算してみると、前半の6月の英語試験を受験したのは多くとも11%以下(105/963)。応募が早かった人の中でも、後半の7月を選んだ人もいただろうから、前半6月の英語試験を受験したのは全受験者の5~6%ほどだったかもしれない。ちょうど6月前半にISSへ到着した星出飛行士から、「宇宙飛行士募集中!」と宣伝したくなるような状況だっただろう。
後日談だが、このニュースを見た油井さん(現宇宙飛行士)は、これで宇宙飛行士募集を知り、かつての夢を思い出し応募したとのことなので、このアピールは絶大な効果があったと言える。
とにもかくにも、歴史的ミッションが進行している裏で、ぼくは「腕時計」を持って行き忘れることもなく、静かな試験会場で落ち着いて最初の英語試験を受けることができた。
ちなみに、ここでの英語試験はあくまで「足切り」に使われるものなので、めちゃくちゃハードルが高いわけではない。日頃から英語を使い、地道に勉強している人であれば、それほど難しい壁ではない。どうしても、長期海外滞在経験や留学経験がないと厳しいのかな?とか、ネイティブに近いレベルの英語が出来ないと宇宙飛行士候補者に選ばれない、と思うかもしれないが、そんなことはない。候補者になってから必死に頑張って、訓練を通じて宇宙飛行士レベルの英語力を身につければ良い。ロシア語もしかり。最初の「足切り」試験でいきなり宇宙飛行士レベルの英語力が求められることはないのでご安心を。
日本初の有人宇宙実験施設である「きぼう」。その長く苦しんだ開発が終わり、今度は「きぼう」を使っていく次のステージへ進む。時を同じくして、そこで将来活躍する新世代宇宙飛行士の選抜試験が開始された。
2008年6月、日本の有人宇宙活動にとって新しい時代が始まる歴史的な瞬間を、ぼくはその両面から実感していた。
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※注:このものがたりで書かれていることは、あくまで個人見解であり、JAXAの見解ではありません
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<著者紹介>
内山 崇
1975年新潟生まれ、埼玉育ち。2000年東京大学大学院修士課程修了、同年IHI(株)入社。2008年からJAXA。2008(~9)年第5期JAXA宇宙飛行士選抜試験ファイナリスト。宇宙船「こうのとり」初号機よりフライトディレクタを務めつつ、新型宇宙船開発に携わる。趣味は、バドミントン、ゴルフ、虫採り(カブクワ)。コントロールの効かない2児を相手に、子育て奮闘中。
Twitter:@HTVFD_Uchiyama