The greatest scientific discovery was the discovery of ignorance.
(最大の科学的発見は無知の発見であった。)
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』
夜空を見上げれば幾万の星が輝き、その間を惑星がゆっくりと彷徨う。肉眼では見えぬけれども、星々の多くは惑星を従え、惑星の多くは衛星を従える。そのひとつ、ひとつに世界がある。その想像は自然と、次の二つの問いに行きつく。
そこに何かいるのか?
そこに何がいるのか?
もし、どこまでも見える魔法の望遠鏡があって、向こうで緑色の宇宙人が手旗信号でも振っているのが見えれば話は簡単だ。もし森や、畑や、街明かりが見えれば、何がいるかは明瞭にわからずとも、何かがいるのはわかるだろう。だが残念ながら、まだ人類は魔法の望遠鏡を持っていない。
もし、鑑定士がダイヤモンドを手にとって虫眼鏡でつぶさに調べ真贋を確かめるように、惑星を手にとって好きな場所を好きな角度から見ることができれば、すぐに答えが出るだろう。生物学者がするように、惑星を水槽に入れて長い時間観察したり、試薬を垂らして反応を確かめたり、あるいはメスで解剖でもできれば楽だ。だが残念ながら、異世界はあまりにも大きく、遠く、そして人類は未だ地球の重力に縛られる非力な存在だ。
そんな人類は、宇宙の謎にこれまでいかにしてアプローチしてきたのだろうか?
そのプロセスは、片思いの相手が自分を好きかどうか、想像を巡らすのと似ているかもしれない。転校してきたばかりのあの子にあなたは一目惚れする。しかし彼女のことを何も知らない。話したことすらほとんどない。にもかかわらず、あの子は自分に気があるのか、ないのか、四六時中考えてしまう。あの子の心にハックして感じていることを全て読み出せれば便利だが、そうはいかない。花びらを一枚ずつちぎりながら「すき」「きらい」「すき」「きらい」と唱えるほどメルヘンでもない。
そこであなたは、既存の知識や常識に照らして、その子についての非常に限られた観測をいちばんうまく説明する仮説はどちらか考える。
たとえば、廊下ですれ違った時に素通りされてしまった (観測)。以前に付き合った人は、付き合う前から会うたびに視線を送ってくれた (既存の知識との照合)。だからきっと僕に興味がないのだろう(仮説の選択)。そう考え、あなたは落胆する。
翌朝、通学路で会ったのでおはようと言ったら、僕を下の名前で呼んでくれた(観測)。親しみを感じない相手を下の名前で呼ばなかろう(常識との照合)。もしかしたらあの子は気があるのかもしれない(仮説の選択)。そう思いあなたは浮かれ気分になる。
そうして、あなたの小さな心は、毎日少しずつ蓄積するわずかな情報の断片から、好きか、嫌いか、どちらの仮説がもっともらしいか、一生懸命に想像する。結論は右へ、左へ、毎日揺れる。ゆらゆらと揺れながら、あなたはだんだん彼女の心をよく理解するようになる。
異世界に生命はいるのか、いないのか。この問いに対する人類の想像も、右へ、左へと揺れている。何しろ我々はほとんど何も知らないのだ。人類が現時点でもっとも網羅的な探査を行った地球以外の世界は火星だが、それですら我々の知識は非常に限られている。火星は地球の全陸地とおよそ同じ面積がある。その広大な大地に降り立った探査機はたった七台。ローバーの総走行距離は2017年10月時点で70㎞強。想像してほしい。宇宙人が地球のたった7カ所に着陸し、70㎞走っただけで、何がわかるだろう?
ましてや火星以遠の世界となると、人類の知識は大洋に浮かぶ一片の芥だ。そのごくわずかな情報に対し、 地球上での知識や常識と照らし合わせて、そこに何かいるのか、何がいるのかを、人類は一生懸命頭をひねって考えてきた。
ほんの50年とちょっと前まで、情報を集める手段は望遠鏡しかなかった。最初は、夜更かしの天文学者が寒い夜に小さな望遠鏡を空に向け、接眼レンズと膝の上のスケッチブックを交互に見ながら、望遠鏡の視野に結ばれた不明瞭な像を鉛筆でスケッチした。やがて写真乾板が目と鉛筆の代わりとなり、スペクトル分析など新しい観測手法が生まれ、光だけではなく電波でも観測を行うようになって、得られる情報は大きく増えた。さらに1960年代半ばから人類は異世界に宇宙探査機を送り込むようになり、 間近から様々な観測を行うようになった。人類は太陽系の八つの惑星全てと数十の衛星、小惑星に探査機を送り込み、そのいくつかには着陸し、そしてその二つからサンプルを持ち帰った。
それでもなお、現在の人類が得た情報は、知り合って三日目の転校生のようなものである。それだけ宇宙は広く、遠く、人類は非力なのだ。だから地球外生命についての想像も依然として右へ左へ揺れている。揺れつつも、少しずつ振幅は小さくなり、不確定性は減りつつある。
宇宙に命はあるのか。この問いに対する想像の変化の過程は、おおよそ三つの期間に分けることができる。
第一は古代から1960年代に初めて人類が惑星探査機を飛ばすまでの長い期間だ。多くの人は火星や金星、空に散らばる無数の世界に命は普遍的にあるだろうという、楽観的な考えを持っていた。
第二は初期の金星・火星探査ミッションの直後。想像の振り子は真逆に振れた。宇宙のどこまでいっても、ほとんど全ての世界は月のようにクレーターの爆撃に無力に晒された不毛の世界だろうという、悲観的な想像を持つようになった。
そして第三はそれから現在に至るまでの約50年だ。この間、様々な探査機が太陽系の数十の世界を訪れ、いくつものイマジネーションを超える発見が成され、その結果として振り子が少しずつ戻りつつある。未だ地球外生命の証拠はどこにも見つかっていないが、生命が存在しうるオアシスのような環境が、不毛と思われていた世界の隠された場所にいくつか見つかった。そして人類は今後20年、そのような「オアシス」にターゲットを絞り、いよいよ地球外生命の証拠を掴もうとしている。
そのドラマを、本章で描きたいと思う。