For small creatures such as we the vastness is bearable only through love.
(我々のように小さな生き物にとって、この広大さは愛によってのみ耐えることができる。)
カール・セーガン『コンタクト』
宇宙人はいるのだろうか?
いないはずはない、と僕は思う。仮に惑星が知的生命を宿している確率を、日本人が東大に入る確率(0.1%)としてみよう。すると、我々の銀河系には数千億の惑星があるから、その中の数億に文明がある計算になる。では仮に、それを人がノーベル賞を取る確率(0.00001%)としてみよう。それでも我々の銀河には数万の文明がある計算になる。
そして宇宙には数千億の銀河がある。宇宙のどこかに……現在とは限らなくとも、過去または未来のどこかの時点で地球外文明が存在する確率は限りなく100%に近いだろう。
では、どこにあるのだろうか?
わからない。だが一つ、確かなことがある。ほぼ全ての地球外文明は我々より圧倒的に進んでいる、ということだ。もし仮に、ある文明の誕生が、138億年の宇宙年齢に対してたった百万分の一、0.0001%だけ、地球文明より早かったとしよう。するとその文明は一万年強も人類より進んでいる。逆に、もしある文明の誕生が0.0001%だけ遅かったら、地球より一万年強遅れていることになる。地球で農業が始まったのが一万年前。おそらく、そのような文明はまだ生まれる前だ。要は、生まれたての赤ちゃんにとってほぼ全ての人間が年上であるのと同じ理屈である。宇宙の時間スケールに対して、人間文明はまだへその緒も乾かぬ赤ちゃんなのだ。
だから、地球外文明は人類でさえ持っている電波交信の技術は間違いなく持っているだろうし、数万光年を旅する船も持っているかもしれない。
ならば、彼らは使節団を地球に送り込んだり、親書を電波で送信したりしていないのだろうか?
その証拠は今のところ、ない。UFOや宇宙人の目撃談は昔から多くあり、科学はそれを仮説としては否定しないが、科学的事実として扱うには根拠が薄すぎる。本章で後述するが、SETI(Search for Extra-Terrestrial Intelligence、地球外知的生命探査)も半世紀以上にわたって行われている。電波望遠鏡で宇宙人からの電波を探す試みである。疑わしい信号を受信したことは何度かあったが、確たるものは一つもない。地球外文明もまた「最終手段の仮説」である。UFOや宇宙人の目撃談もSETIの候補信号も全て地球外文明に依らない仮説(自然現象、天文現象、ノイズ、幻覚など)で説明できてしまう。その基準に照らせば、未だ人類は地球外文明と一度も遭遇していない。
なぜだろう? なぜ、統計的には宇宙に数え切れないほど文明があるはずなのに、彼らは我々にコンタクトしてこないのだろう?
まだ来ていないだけだろうか?
気付いていないだけだろうか?
やはりUFOや宇宙人は事実だったのだろうか?
それとも、我々は宇宙にひとりぼっちなのだろうか?
つい十年ほど前までは、この問いに対する唯一のアプローチは、有名な「ドレーク方程式」だった。方程式といっても単純で、銀河で毎年生まれる恒星の数に、恒星が惑星を持つ確率、惑星がハビタブルである確率、ハビタブルである惑星に生命が生まれる確率、生命が知的生命に進化する確率、そして知的文明の平均存続年数を掛け合わせれば、現在銀河系に存在する知的文明の数を見積もれる、というのがドレーク方程式である。
なぜドレーク方程式がこのような形をしているかといえば、方程式が生まれた一九六一年にはまだ、最初の項である「銀河で毎年生まれる恒星の数」以外は何もわかっていなかったからだ。唯一わかっていたものを出発点に、その他の項を人類の限られた知見から外挿して、「地球外文明の数」になんとかもっともらしい予想を与えるための苦肉の策がドレーク方程式だったと言える。
最近の系外惑星探査の急速な進歩は遠くの星にあるハビタブルな惑星の数を観測から直接見積もることを可能にした。さらに生命が存在する惑星の検出にも迫ろうとしている。そして、直接的に地球外文明を探す試み、SETIも続けられている。
本章ではこの最前線を紹介するとともに、地球外文明とコンタクトし、ホモ・アストロルムー「宇宙の人」へと進化した人類の未来について、イマジネーションを巡らせてみようと思う。