生物汚染のジレンマ/『宇宙に命はあるのか 〜 人類が旅した一千億分の八 〜』特別連載54 | 『宇宙兄弟』公式サイト

生物汚染のジレンマ/『宇宙に命はあるのか 〜 人類が旅した一千億分の八 〜』特別連載54

2018.07.25
text by:編集部コルク
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「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!

『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕さんがひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕さんの書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。

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ひとつ、地球外生命探査における大きな困難がある。地球から持ち込んだ微生物によって異世界を汚染してしまうリスクである。先述のように、地球の生命には極限環境への優れた耐性を持つものがある。そしてもしそれが探査機に付着して火星やエウロパやエンケラドスに持ち込まれ繁殖してしまったら、現地の生態系を破壊してしまうかもしれないし、生命を発見してもそれが地球外生命なのか地球の生命なのか区別がつかなくなってしまう。そうなると、人類史上最大の発見への扉を、自ら閉ざしてしまうことにもなりかねない。一度汚染してしまったら永遠に元に戻すことはできない。

人類は大航海時代に苦い経験をした。この時代にヨーロッパ人が植民地の原住民に対して働いた横暴の数々は、書くまでもなくご存知だろう。だがあまり知られていないのは、原住民の犠牲者のうち、銃と剣によって殺された者の比率はわずかであるという事実だ。

最大の殺戮者はヨーロッパ人が意図せず持ち込んだ病原菌だった。新大陸の原住民は旧世界の病原菌に対して全く免疫を持っていなかったため、パンデミックが起こったのである。たとえば、ヨーロッパ人の到着前に2000万人いたメキシコの人口は、天然痘などの大流行により100年の間に10分の1以下の160万人にまで減少した。アステカ皇帝クイトラワクも犠牲者の一人だった。マンダン族インディアンのある集落では、ヨーロッパ人との接触後、やはり天然痘のため2000人の人口が数週間のうちに40人以下に減少した。南北アメリカ大陸全体で見ると、コロンブスのアメリカ大陸「発見」以降200年以内に、疫病によって先住民の人口が95%減少したと推定されている。

逆に、新大陸から持ち込まれた病原菌が旧世界で「逆汚染」を引き起こした例もあった。たとえば梅毒はもともとアメリカ大陸にしか存在しなかったが、ヨーロッパに持ち帰られて1494年から大流行し、その20年後にはユーラシア大陸を横断して日本にも到達した。梅毒は現在では治療法が確立しているが、過去には死に至る危険な病気だった。

人類は過ちから学ぶことができる。1976年、アメリカ、ソ連、日本など主要な宇宙開発国を含む百四カ国は宇宙条約に調印、批准した。第九条にこう定められている。

月その他の天体を含む宇宙空間の有害な汚染、及び地球外物質の導入から生ずる地球環境の悪化を避けるように月その他の天体を含む宇宙空間の研究及び探査を実施、かつ、必要な場合には、このための適当な措置を執るものとする。

この条項を受け、科学者の集まりである国際宇宙空間研究委員会(COSPAR)は「惑星防護ポリシー」を策定した。その骨子は、火星、エウロパ、エンケラドスなど生命探査の対象となる天体に探査機を送る場合に、生物汚染の確率を一万分の一以下に抑制するという基準である。

なぜ一万分の一なのか。リスクをゼロにすることは、探査機を送り込むことを諦めない限り不可能だ。だがそれではやはり人類は地球外生命探査をできない。汚染のリスクと探査の必要性の現実的妥協点が、一万分の一だということだ。

では、具体的にどのような惑星防護の対策が取られているのか。意外と単純だ。高温殺菌である。火星に着陸するNASAの探査機は全てクリーン・ルームで組み立てられた後、125℃の釜に30時間入れられて高温殺菌される。その後はバイオシールドに入れられ、ロケット搭載時の細菌汚染を防ぐ。

火星サンプルリターンでは逆汚染の対策も必要になる。火星から持ち帰られたサンプルはバイオセーフティーレベル4の施設で厳重管理されることになっている。レベル4とは、エボラウイルスや天然痘ウイルスを扱うための最高度安全施設である。

では、有人探査の場合はどうするのか。人間は菌の塊だ。一人の体には40兆個もの細菌が住んでいると言われている。しかし、宇宙飛行士を125℃の釜に30時間入れたら、菌もろとも宇宙飛行士も死んでしまう。

ではどうすればいいのか。これはまだ結論が出ていない。必要なのはさらなる科学的調査と技術開発だ。リスクをコントロールするためには、異世界の環境で地球生物がどれだけ生きられるかの知見を深める必要がある。さらに、微生物を逃さない宇宙服や、排泄物中の微生物を確実に殺菌するトイレなども必要だろう。僕は有人探査における惑星防護も技術で解決可能な問題であると考える。大事なのは、そのための研究開発にしっかりと投資すること、そしてそれが未熟なうちに「見切り発車」しないことである。

(つづく)

 

<以前の特別連載はこちら>


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【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
【第17回】〈一千億分の八〉火星ローバーと僕〜赤い大地の夢の轍
【第18回】〈一千億分の八〉火星植民に潜む生物汚染のリスク

〈著者プロフィール〉

小野雅裕(おの まさひろ)

NASA の中核研究機関であるJPL(Jet Propulsion Laboratory=ジェット推進研究所)で、火星探査ロボットの開発をリードしている気鋭の日本人。1982 年大阪生まれ、東京育ち。2005 年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9 月よりマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学。2012 年に同航空宇宙工学科博士課程および技術政策プログラム修士課程修了。2012 年4 月より2013 年3 月まで、慶応義塾大学理工学部の助教として、学生を指導する傍ら、航空宇宙とスマートグリッドの制御を研究。2013 年5 月よりアメリカ航空宇宙局 (NASA) ジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)で勤務。2016年よりミーちゃんのパパ。主な著書は、『宇宙を目指して海を渡る』(東洋経済新報社)。現在は2020 年打ち上げ予定のNASA 火星探査計画『マーズ2020 ローバー』の自動運転ソフトウェアの開発に携わる他、将来の探査機の自律化に向けた様々な研究を行なっている。阪神ファン。好物はたくあん。

さらに詳しくは、小野雅裕さん公式HPまたは公式Twitterから。