マリナー、ボイジャー、カッシーニなどの探査機が幾度も人類の宇宙観を塗り替えてきた過程を振り返るにつけ、あることを実感せざるを得ない。
人類はまだ、いかにわずかしか知らないか、である。
科学者が信じる数々の仮説も、SF小説家が想像する宇宙像も、学生が使う教科書も、これから何度も塗り替えられていくことだろう。21世紀の我々が金星人を描いたSFを古臭く感じるように、未来の人類は21世紀人類の宇宙観をナイーブだったと振り返るだろう。その未来人すらも、さらに未来の人から見れば、何も知らない赤子に思えるだろう。宇宙は果てしなく広い。それに比べて人類は限りなく小さい。たしかに人類は太陽系の八つの惑星全てに探査機を送り込んだ。しかし、銀河系にある惑星の数は約一千億と言われている。人類はまだ、その一千億分の八しか知らないのだ。
無知の自覚は自らを貶することではない。むしろその逆だ。「知らざるを知らずと為す是知るなり」と論語にある。無知の自覚は無知の克服の出発点である。
ガリレオは古来のキリスト教的宇宙観を否定する地動説を唱えたため裁判にかけられた。それに対し、アインシュタインは古典物理学を否定する光量子仮説を唱えたためノーベル賞が与えられた。これは単に時代の違いではない。ガリレオの宗教裁判の如き進歩の拒絶は現代でも多くみられる。違いは、知識への態度である。既存の知識への信仰と、既存の知識の不完全性の自覚との違いである。自分はまだ何も知らない。自分は間違っているかもしれない。この謙虚な自覚こそが科学の本質だ。そしてそれこそが進歩の原動力だ。
だが、無知の自覚は簡単ではない。深海の全てを知ったシーラカンスが世界の全てを知っていると思い込んでも、何の不思議があろう。そんなシーラカンスのような人が、皆さんの周りにもいないだろうか? もっとも、おおよそ人は多かれ少なかれ、実際に知る以上に自分は知っていると思い込むものである。理由は単純だ。何を知らないかを前もって知ることはできないからだ。たとえば、近代まで人類は天王星と海王星を知らなかった。ソクラテスは自分が天王星と海王星を知らないことを知ることができただろうか? ベートーベンは自分がロックンロールを知らないことを知ることができただろうか?
知らないことを知る。この自己矛盾的な認識を可能にする不思議な能力が、人には備わっている。
イマジネーションだ。
たとえ天王星や海王星の存在を知らなくても「宇宙にはまだ未知の世界があるかもしれない」と想像することができる。たとえエレキギターを知らなくても「まだ誰も聞いたことのない音があるかもしれない」と想像することができる。たとえ地球外生命に出会ったことがなくても「そこに何かいるかもしれない」と想像することができる。科学も技術も芸術も、人類の創造的な活動の源泉は全て、イマジネーションなのである。
未知の一千億分の九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十二を目指し、人類の旅は続く。何万年、何億年とかかるだろう。そこに何かいるのか。そこに何がいるのか。科学者の仮説も、人類の宇宙観も、片思いの若者の心のように右へ、左へと揺れ続けるだろう。その過程は永遠に終わることはないが、人類の知識は少しずつ真実へ漸近していくだろう。我々がイマジネーションの火を絶やさない限り。