「私」はどこからきたのか?1969年7月20日。人類がはじめて月面を歩いてから50年。宇宙の謎はどこまで解き明かされたのでしょうか。本書は、NASAの中核研究機関・JPLジェット推進研究所で火星探査ロボット開発をリードしている著者による、宇宙探査の最前線。「悪魔」に魂を売った天才技術者。アポロ計画を陰から支えた無名の女性プログラマー。太陽系探査の驚くべき発見。そして、永遠の問い「我々はどこからきたのか」への答え──。宇宙開発最前線で活躍する著者だからこそ書けたイメジネーションあふれる渾身の書き下ろし!
『宇宙兄弟』の公式HPで連載をもち、監修協力を務め、NASAジェット推進研究所で技術開発に従事する研究者 小野雅裕さんがひも解く、宇宙への旅。 小野雅裕さんの書籍『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』を特別公開します。
「1960年代が終わるまでに人間を月に送り込む」とケネディー大統領が演説したのが1961年。その時24歳だったマーガレット・ハミルトンは、アポロが自分に関係のある話だとは思わなかっただろう。彼女はマサチューセッツ州ボストン近郊にあるMITリンカーン研究所でソ連機の自動追尾システムの開発に携わっていた。田舎町に生まれた彼女は、大学で数学を学んだ後、結婚し、北の都ボストンに移り住んで、後に女優となる一人娘のローレンを生んだ。 当時はまだ働く女性は少なく、技術職ではなおさらだった。夫が学生だったため、彼女の収入が一家を支えた。
2年ほど経った1963年のある日、ハミルトンはある噂を耳にした。同じMITのインスツルメンテーション研究所(現ドレーパー研究所)が、「月に人を送るためのコンピューター」を開発しているという噂だった。「一生に一度のチャンスだ」と思った彼女はすぐに電話をかけ、その日のうちに二つの部署と面接を取り付けた。面接の日に両方から合格の知らせが来た。一方が本命だったが、もう一方を断って相手を傷つけるのが嫌だった彼女は、コイントスで決めてくれと伝えた。本当にコイントスをしたかはわからない。彼女は結果的に望んでいた部署に雇われ、アポロ誘導コンピューターのソフトウェア開発をすることになった。
アポロ誘導コンピューター。MITが開発したこのコンピューターは、宇宙を飛んだ最初のデジタル・コンピューターのひとつだった。その計算速度は現在のスマートフォンの1000分の1にも満たない。しかしそこには時代をはるかに先取りしたイノベーションが詰め込まれていた。
その一例が集積回路(IC)だ。当時、コンピューターといえば部屋ひとつを占める巨大な代物で、小さな町の灯りを全部つけられるくらいの電力を食った。宇宙船に搭載するためには、革命的に小さく、軽く、省電力にする必要があった。それを可能にした魔法が当時の最新技術だったICだ。まだICを採用する電気製品はほとんどなく、1963年には全米で生産されるICの60%がアポロ向けだった。
サイズは小さくても、アポロ誘導コンピューターには絶対的な信頼性が求められた。「間違えてデータが飛んじゃった」などということは許されない。それは宇宙飛行士の死を意味するかもしれない。アポロ誘導コンピューターのプログラムやデータを格納するメモリ(ROM)には、叩いても蹴っても絶対に消えない仕掛けがあった。データが「縫い付けて」あったのだ。どういうことかというと、このROMは「コア・ロープ・メモリ」といって、無数のリングと電線でできている。リングを電線が通ると1、通らないと0を表す。一度縫われてしまえば、叩いても蹴ってもメモリを消すことは物理的に不可能なのだ。
コア・ロープ・メモリは、0と1の列を女工さんたちが一針、一針、縫い針で縫って作った。女工さんたちの指先に、月への旅の成否がかかっていた。
<以前の特別連載はこちら>
- 01 宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─
- 02 幼年期の終わり
- 03 ロケットの父の挫折
- 04 フォン・ブラウン〜宇宙時代のファウスト
- 05 ナチスの欲したロケット
- 06 ヒトラーの目に灯った火
- 07 悲しきロケット
- 08 宇宙を目指して海を渡る
- 09 鎖に繋がれたアメリカン・ドリーム
- 10 セルゲイ・コロリョフ〜ソ連のファウスト博士
- 11 スプートニクは歌う
- 12 60日さえあれば
- 13 NASAの誕生、そして月へ
- 14 最初のフロンティア
- 15 小さな一歩
- 16 嘘だらけの数字
- 17 無名の技術者の反抗
- 18 究極のエゴ
- 19 プログラム・アラーム1202
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『宇宙に命はあるのか ─ 人類が旅した一千億分の八 ─』の元となった人気連載、『一千億分の八』をイッキ読みしたい方はこちらから
【第1回】〈一千億分の八〉はじめに
【第2回】〈一千億分の八〉ガンジス川から太陽系の果てへ
【第3回】〈一千億分の八〉地球をサッカーボールの大きさに縮めると、太陽系の果てはどこにある?
【第4回】〈一千億分の八〉すべてはSFから始まった〜「ロケットの父」が愛読したSF小説とは?
【第5回】〈一千億分の八〉なぜロケットは飛ぶのか?〜宇宙工学最初のブレイクスルーとは
【第6回】〈一千億分の八〉なぜロケットは巨大なのか?ロケット方程式に隠された美しい秘密
【第7回】〈一千億分の八〉フォン・ブラウン〜悪魔の力を借りて夢を叶えた技術者
【第8回】〈一千億分の八〉ロケットはなぜまっすぐ飛ぶのか?V-2のブレイクスルー、誘導制御システムの仕組み
【第9回】〈一千億分の八〉スプートニクは歌う 〜フォン・ブラウンが戦ったもうひとつの「冷戦」
【第10回】〈一千億分の八〉宇宙行き切符はどこまで安くなるか?〜2101年宇宙の旅
【第11回】〈一千億分の八〉月軌道ランデブー:無名技術者が編み出した「月への行き方」
【第12回】〈一千億分の八〉アポロを月に導いた数式
【第13回】〈一千億分の八〉アポロ11号の危機を救った女性プログラマー、マーガレット・ハミルトン
【第14回】〈一千億分の八〉月探査全史〜神話から月面都市まで
【第15回】〈一千億分の八〉人類の火星観を覆したのは一枚の「ぬり絵」だった
【第16回】〈一千億分の八〉火星の生命を探せ!人類の存在理由を求める旅
【第17回】〈一千億分の八〉火星ローバーと僕〜赤い大地の夢の轍
【第18回】〈一千億分の八〉火星植民に潜む生物汚染のリスク
〈著者プロフィール〉
小野雅裕(おの まさひろ)
NASA の中核研究機関であるJPL(Jet Propulsion Laboratory=ジェット推進研究所)で、火星探査ロボットの開発をリードしている気鋭の日本人。1982 年大阪生まれ、東京育ち。2005 年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年9 月よりマサチューセッツ工科大学(MIT) に留学。2012 年に同航空宇宙工学科博士課程および技術政策プログラム修士課程修了。2012 年4 月より2013 年3 月まで、慶応義塾大学理工学部の助教として、学生を指導する傍ら、航空宇宙とスマートグリッドの制御を研究。2013 年5 月よりアメリカ航空宇宙局 (NASA) ジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory)で勤務。2016年よりミーちゃんのパパ。主な著書は、『宇宙を目指して海を渡る』(東洋経済新報社)。現在は2020 年打ち上げ予定のNASA 火星探査計画『マーズ2020 ローバー』の自動運転ソフトウェアの開発に携わる他、将来の探査機の自律化に向けた様々な研究を行なっている。阪神ファン。好物はたくあん。