僕が勤めるNASAジェット推進研究所(JPL)は、年中快晴のロサンゼルス郊外の、アロヨ・セコという普段はほぼ枯れている川が山から平野に流れ出す場所にある。空の青さ相応に、所内の文化もカジュアルで自由だ。六千人の職員のうちネクタイを締める人はほぼおらず、 マネージャーでさえTシャツと短パンで出勤することも珍しくない。僕もたまに下駄で出勤する。
そんなJPLの186号棟のオフィスの壁に、一枚の「ぬり絵」が額に入れられて大切に飾られている。紙を赤や茶色やピンクのパステルで塗りつぶしただけの手描きの絵だ。近づいてみると、紙には無数の数字がタイプされている。まるでイタズラ好きの子供が、父親のカバンから盗み出したデータシートに落書きしたようだ。
なぜこんなぬり絵がNASAで大事に保存されているのか?
実はこれは、史上初の「デジタル画像」である。しかし、なぜ手書きのパステル画なのに「デジタル」なのだろうか?
そしてこの絵には、火星の素顔を初めて見た人類の様々な感情がこもっている。破裂せんばかりの期待。抑えられない興奮。そして、「あの子はやっぱり僕に気がないんだ」と思い込んだ若者のような落胆と孤独が。
右:「塗り絵」の拡大画像(撮影:筆者)
火星探査の話を始める前に、いかにして惑星へ航海するかについて、少しお話ししよう。
惑星への飛行は昔の帆船の航海と似ている面がある。帆船は航海できるタイミングが限られていた。たとえばイスラム黄金時代のアラブ商人は、北風の吹く冬にアラビアからアフリカへ航海し、南風の吹く夏にアラビアへ戻った。
地球から火星へ航海できるタイミングは二年二ヶ月に一度しかない。二年二ヶ月に一度、内側を公転する地球が外側をゆっくり公転する火星を追い抜く。そのおよそ四ヶ月前から二ヶ月後までの間が出帆のタイミングだ。航路が開く期間を「ローンチ・ウィンドウ」と呼ぶ。
地球を出帆した船は、図のように太陽を約半周回って火星に着く「ホーマン軌道」と呼ばれる航路を取る。航海には約八ヶ月かかる。まっすぐ飛ばないのは、この方がはるかに少ない燃料で行けるからだ。ホーマン軌道で航海する宇宙船から見ると、火星をめがけて飛んでいるのではなく、火星が斜め前からだんだん近づいてくるように見える。
火星に着いても、何もしなければ船はそのまま通り過ぎてしまう。ロケットを逆噴射して減速し、重力に捉えられなくては「入港」できない。初期の火星・金星探査機には減速のための燃料を積む余裕がなかった。特急電車のように惑星を高速で通過するわずかな時間に、写真を撮ったり科学観測したりしなくてはならなかった。このようなミッションを「フライバイ」という。
航海は簡単ではない。現在までに火星を目指した探査機は四十五ある。そのうち成功したのは二十三機だけだ。
惑星を目指した初めての船は、一九六〇年のローンチ・ウィンドウに打ち上げられた二機のソ連の火星探査機だったが、両者とも失敗した。ソ連はさらに一九六一年に初の金星探査機を、一九六二年には三機の火星探査機を打ち上げたが、やはり全て失敗した。史上初めて惑星への航海に成功したのは、一九六二年に打ち上げられたアメリカの金星探査機マリナー2号である初めて火星フライバイに成功したのは、一九六四年のウィンドウで打ち上げられた、やはりアメリカのマリナー4号だった。